五王戦国志4 黄塵篇 井上祐美子 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)征《せい》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)〈衛〉王|耿無影《こうむえい》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)しら[#「しら」に傍点]をきりとおす ------------------------------------------------------- [#挿絵(img/04_000.jpg)入る] 〈カバー〉 大国〈征《せい》〉の中原制覇を阻むため〈衛《えい》〉と〈容《よう》〉が結ぶ盟約交渉の席で二人は再会を果たした〈衛〉王|耿無影《こうむえい》と無冠の謀士|耿淑夜《こうしゅくや》 かつて兄と慕い、やがて仇と憎んだ無影が明かす思いもかけぬ真実に堅くしこった淑夜の心は溶けていく だが恩讐の歳月はもはや後戻りできぬほど二人を隔て戦場へと風が漢《おとこ》たちを駆り立てる COMMENT 井上祐美子 Yumiko Inoue これだけはやりたくなかった巻数延長。淑夜も無影との再会を果たし、めざすものも、また物語の流れも変化しはじめました。最後で逆転サヨナラをくらわないよう、淑夜も作者も懸命です(笑) PROFILE 1958年11月生まれ。兵庫県姫路市出身。中国の歴史を素材にした小説で独自の世界を切りひらく。主著に「五王戦国志1〜4」(小社刊)、「桃妖記」(徳間書店)、「長安異神伝1〜7」「桃花源奇譚1〜3」(トクマ・ノベルズ)、「女将軍伝」(フェミナノベルズ)などがある。 カバーイラスト/小林智美 カバーデザイン/森 木の実(12 to 12) [#改ページ] [#挿絵(img/04_001.jpg)入る]  五王戦国志4 黄塵篇 [#地から1字上げ]井上祐美子 [#地から1字上げ]中央公論社 [#地から1字上げ]C★NOVELS Fantasia [#地から1字上げ]挿画 小林智美   目  次   序  第一章 胎動  第二章 交錯  第三章 別離、ふたたび  第四章 天意   あとがき [#改ページ]  主な登場人物 耿淑夜《こうしゅくや》 [#ここから3字下げ] 一族の仇である堂兄・無影の暗殺に失敗し逃亡中、羅旋にひろわれ〈奎《けい》〉軍に加わる。謀士《ぼうし》として〈衛《えい》〉〈征《せい》〉に対するが、義京《ぎきょう》の乱後、羅旋と袂《たもと》をわかち大牙とともに〈容《よう》〉に亡命。〈衛〉より懸賞をかけられた身であるため、表向き下級の役回りに就きながら、大牙の謀士として〈奎〉の再興と中原の統一を志す。読んだ書物をすべて暗記する特技を持つ。 [#ここで字下げ終わり] 段大牙《だんたいが》 [#ここから3字下げ] 小国〈奎〉の世嗣。闊達果断な武人。〈征〉〈衛〉の野望に対し、〈魁《かい》〉王朝の秩序を護ろうと兵を挙げたが、王都義京で太宰子懐《たいさいしかい》が謀叛、〈魁〉王を弑逆したため敗走。父|之弦《しげん》と兄|士羽《しう》、そして封国を失った。手勢とともに〈容〉に亡命して雌伏、政争に乗じて〈容〉の執政となり、〈奎〉の再興を志す。 [#ここで字下げ終わり] 冀小狛《きしょうはく》 [#ここから3字下げ] 〈奎〉の老将軍。義京の乱後も大牙に仕え〈容〉に亡命。剛毅にして実直。謀士淑夜の存在をようやく受け入れた。 [#ここで字下げ終わり] 赫羅旋《かくらせん》 [#ここから3字下げ] 西方の戎《じゅう》族出身の遊侠。元〈魁〉の戎華《じゅうか》将軍・赫延射《かくえんや》の子。豪放磊落で胆力にすぐれる。侠の集団を率いて〈奎〉軍に加わったが、義京の乱で敗走、西方に逃れた。居を定めた辺境国〈琅《ろう》〉の内乱で藺如白を助け、その義子となる。 [#ここで字下げ終わり] 藺如白《りんじょはく》 [#ここから3字下げ] 西方の辺境国〈琅〉の国主。羅旋の助力を得て異母弟との政争に勝ち、小国の生き残りを賭けて国内の改革に着手する。 [#ここで字下げ終わり] 揺《よう》 珠《しゅ》 [#ここから3字下げ] 嬰児のころに〈魁〉の王太孫の妃となるが、死別。先の〈琅〉公|孟琥《もうこ》の実妹で、義京の乱後〈琅〉に暮らす。 [#ここで字下げ終わり] 耿無影《こうむえい》 [#ここから3字下げ] 淑夜の堂兄。主君を弑逆《しいぎゃく》、己の一族をも滅ぼして〈衛〉の公位を簒奪《さんだつ》した。性、狷介《けんかい》だが、怜悧な手腕で〈征〉に次ぐ南方の大国〈衛〉を能《よ》く治め、中原の制覇に野心を燃やす。義京の乱後、王を名乗る。 [#ここで字下げ終わり] |百 来《ひゃくらい》 [#ここから3字下げ] 〈衛〉の老将軍。無影の公位簒奪に反発が渦巻く中、逸早くその信頼を得て重臣となり、獲得した小国〈鄒《すう》〉を治める。 [#ここで字下げ終わり] |※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]連姫《しんれんき》 [#ここから3字下げ] 無影・淑夜の幼なじみで、〈衛〉一の美女。無影の後宮に過ごすが、堅く心を閉ざしている。 [#ここで字下げ終わり] 尤暁華《ゆうぎょうか》 [#ここから3字下げ] 中原屈指の富商・尤家の女当主。〈魁〉の王都義京で、女ながら大国を相手に商売をとりしきる一方、段大牙や赫羅旋らを背後から援助した。義京の乱で〈魁〉が滅亡してのち、無影と結び〈衛〉に拠点を移した。 [#ここで字下げ終わり] 野《や》 狗《く》 [#ここから3字下げ] 羅旋を頭取と仰ぐ侠たちの一人で、夜盗を生業とした。義京の乱後、〈衛〉の無影のもとで無影の密使を務める。 [#ここで字下げ終わり] 魚支吾《ぎょしご》 [#ここから3字下げ] 東方の大国〈征〉の主。壮年の美丈夫で辣腕の戦略家。中原の覇権に執念を燃やし、〈魁〉王朝の滅亡を仕掛けた。義京の乱後、〈魁〉と〈奎〉を版図に収め、王を名乗る。中原の再統一まで最短の距離にあるが、嫡男・三男を失い、世嗣は幼く、忍び寄る病魔に焦りを感じ始めている。 [#ここで字下げ終わり] 漆離伯要《しつりはくよう》 [#ここから3字下げ] 礼学を修めた〈征〉の謀士。才気に溢れ、魚支吾の信を得て、身分に拠らぬ公正な法治国家建設を目指す。支吾の三男が嫡男を殺害した事件で、法による厳格な処罰を建言。主張は容れられたものの、支吾に疎《うと》まれている。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#挿絵(img/04_006.png)入る]  五王戦国志4 黄塵篇      序 〈魁《かい》〉滅亡後、二大国となった〈征《せい》〉、〈衛《えい》〉の懸案は、国政の改革と人材の登用だったが、方法は微妙にことなっていた。  前国主を弑《しい》した〈衛〉の耿無影《こうむえい》は、まず、おのれへの支持をとりつけるために、卿大夫《けいたいふ》たちの旧来からの権益を保証した。逆に、拡大すらしたのだが、それを永久に持続させる気もまた、最初からなかったのである。  国内の情勢が落ち着くとともに、無影は国都《こくと》に学舎《がくしゃ》を設置し、学問を志す若者を集めさせた。  入舎については、問題を出し、ある程度の選抜をおこなった。また、時に耿無影みずからが、学舎の弟子たちに課題を与え、直《じか》に討論することもあったという。  当初、士大夫《したいふ》の子弟たちを受け入れていた学舎は、やがて無影自身の意向で庶民をも受け入れはじめる。教育の結果は、数年後を待たなければならなかったが、やがて卿大夫たちの権限を棚上げしての、身分・階級を問わない登用がはじまることになる。  むろん、世襲《せしゅう》の身分・財産を持つ者たちの反発は大きく、やがて紛争をひきおこすこととなったのは、いたしかたのないことだった。  同様の事態は、〈征〉でも起きている。新たに長泉《ちょうせん》の野に建設した新都《しんと》に、真っ先に設置された機関は太学《たいがく》だった。だが、臣下の建策によって設けたこの学問の府を、〈征〉王・魚支吾《ぎょしご》は、さほど重視してはいなかったようである。結局、ここから出た人材が〈征〉の重職に就くことはなかった。士大夫の子弟のみならず庶民にも門戸を開くようにという建言も、他の者の反対を理由にとりあげずに終わった。 〈衛〉の動向を見ていた魚支吾が、無用の摩擦を避けたのだという説もある。だが、もともと、人口も多く人材の豊富な〈征〉では、それまでの制度を崩壊させてまで人を登用する必要を——というより、登用を制度化する必要を認めなかったのかもしれない。  他の国々でもむろん、前記の二点が急務だったことにはかわりない。だが、〈征〉〈衛〉二国の脅威から脱するためには、制度の改革よりまず軍備の増強の方が急務だったのである。 〈容《よう》〉をはじめとする北方の諸国はことに、〈征〉の勢力伸張を警戒し兵力を増やしつづけたが、その体制にはいっさい手をつけなかった。卿大夫が| 政 《まつりごと》をおこない、庶民はそれに従う。戦場においても、士大夫階級の甲士《こうし》の乗る戦車を中心にし、庶民から徴用された歩兵がその周囲をかためる。旧来の形が、頑固に守られたのである。 〈魁〉という権威と求心力を失った彼らにとって、〈魁〉時代に定められたことは何によらず、改変すべきことではなかった。また、矛盾や問題点があったとしても、それをみずから是正するだけの国力を、彼らは持っていなかった。  さて、〈征〉〈衛〉二国が、上からの人材登用をおこなったのに対して、まっこうから逆の道を選んだのが〈琅《ろう》〉である。  これは、だれか特定の個人が意図したことではなく、結果としてそうなったにすぎない。人口も少なく、法も制度も中原にくらべればはるかに未整備だった〈琅〉が、生きのこるためには他に選ぶ道がなかったのだろう。  戦場において、いかに効率よく人を動かすか。どうすれば犠牲を少なくして、戦果を多く得ることができるか。そして、寡兵《かへい》をもって、兵力にも技術力にもまさる大国に、いかにして抗していくか。  生きのこる技術の有無は身分に因《よ》らないことを、彼らは身をもって知っていた。何度かの戦で人が淘汰《とうた》されていった結果、自然、のこった者が兵を指揮するようになり、戦略を考えるようになり、やがて国の方向を動かすようになる——。  歴史も文化も比較的に浅く、中原の国々ほど身分が固定化していなかった〈琅〉でなければ、実現不可能なことだった。 〈魁〉が滅んでから三年後の秋は、〈琅〉がはじめて、中原の歴史に大きく介入した時だった。 [#改ページ]  第一章————————胎動      (一)  重い馬蹄《ばてい》の轟《とどろ》きとともに、白刃が舞った。  血の混じった泥土が、昏《くら》い天まではねあがるかと思えた。 「————!」  裂帛《れっぱく》の気合いとともにくりだされた白い槍の穂の先で、ざくりと音と手ごたえが同時に起きて、ひとつ生命が消えたことを報《し》らせる。だが、その瞬間にはもう、長槍《ちょうそう》の持ち主はその場から遠くはなれた場所を疾駆《しっく》していた。  赤みのかかった毛なみの馬が、その大柄な漢《おとこ》の乗り物だった。  彼だけではない。漢が率いる百人あまりの一団は、ひとりのこらずたくましい馬にまたがっていた。しかも、全員、重い甲冑《かっちゅう》はつけず、皮革製の防具で胴と手足を護《まも》っている程度の軽装である。だが、その馬の足の速さと乗り手の巧みさは、どんな厚い鉄甲《てっこう》よりも敵の攻撃から身を守るのに有効だった。少なくとも、徒歩の兵士たちが群がって戟《ほこ》や剣をいくらふりまわしても、彼らにかすりもしなかった。まして、三頭だて、四頭だての戦車では小回りがきかず、追いかけることもできない。矢を射かけても軽々と避けられ、かえって相手の敵愾心《てきがいしん》をあおって戦車からたたき落とされる始末である。  漢たちの槍にかかって犠牲者が出るばかりで、反撃の余裕もなく、五百人の軍はまたたくうちに散り散りになってしまった。  襲撃をうけたのが、小邑《しょうゆう》を襲い、戦利品をかかえての移動中だったというのも、災いした。勝利に傲《おご》っていた時期でもあり、荷車の守備のために多くの歩卒をさいていた。ために、隊列は伸びきり、一撃をうけた時に、命令系統が寸断されたのである。  もともと、戦とは戦車一台に三人の甲士が乗り、歩卒がその周囲を守って戦うものである。戦車同士をすれ違わせ、戟《ほこ》で乗り手をたたき落とすことで勝敗を争うのが、戦の常識である。——そのはずだったのに、常識をこの騎馬の一団はくつがえしてしまった。一台の戦車もまじえない少数で、野獣のように襲いかかり、またたくうちに歩卒と戦車との連係を断ってしまったのだ。 (こんなはずが——)  と、敗色の濃い方は思っただろう。  その一団が辺境の茣原《ごげん》を出て自分たちの討伐に向かっていることは知っていたが、まさかこれほど早く到着されるとも思っていなかっただろう。 「卑怯者!」  という声も、戦場のそこここであがっていたようだ。もっとも、馬上の漢たちにいわせれば、 「戦に卑怯もなにもあるものか」  そういうことばが返ってきただろう。 「おのれ、赫羅旋《かくらせん》め、あの戎賊《じゅうぞく》め」  という罵声《ばせい》もあがったようだが、しょせん、繰り言にすぎない。 「退《ひ》け——いや、逃げろ!」  ついに将のひとりが戦車の上で叫んだ時には、見渡すかぎりの視野の中に立っている兵の数は、数えるほどしかなかった。斃《たお》れるか傷つくか、でなければ不意をつかれた時にさっさと逃亡してしまったものと思われた。  兵がいなければ、戦はできない。これでは、将が逃げたところで責められるいわれはないと思ったのか。彼らの拠点である城邑《まち》まで、あとわずかの距離を逃げ切れば、生き延びられると思ったのか。  だが、 「逃げろというに! ええい、早くせぬか」  と、せかされても、頑丈な戦車の車輪は、かなり大きい。直線を疾走するのには向いているが、右折左折や転回は苦手である。曲がろうとすれば、車は大きな弧を描かなければならない。  しかも、下はなだらかな草原とはいえ、車の走行を妨げる石やくぼみもある。そうたやすく、乗り手の意のままにはなってくれない。  中央に立った御者は主人の命令に忠実だったが、忠実だけではどうにもならないこともあった。  戦車の動きが遅いのに、主人が業をにやした。御者の手の鞭《むち》をさっと奪い取ると、御者にむかって腕を数回、振り降ろした。  あっと叫んで、御者は顔と身体をかばう。馬を御する方は、当然のことながらおろそかになる。  馬の足並みと方向が、一瞬、乱れた。  次の瞬間に絶叫をあげたのは、鞭をつかんだ将の方である。車輪の片方がちいさなくぼみにはいったのだ。車輪はそのままの勢いでくぼみから飛び出し、水平の均衡を失った戦車は斜めに傾きながら跳ね上がった。車上の人間も、空中に放りだされた。  血だまりの中に頭からつっこんで、目の前が暗くなる。それでも懸命に気力をふりしぼって上げた眼前に、たくましい馬の四肢が大映りになった——。  それが、彼の見たこの世の最後の風景だった。 「——逃げる者を追うな。深追いするな!」  数にして五倍の敵を蹴散らし、勢いにのって追撃にうつろうとする味方を、羅旋はひきとめにかかった。 「これ以上、殺すな。降伏してくる者を殺すな。逃げる者は、見逃してやれ!」  |※[#「馬+華」、第3水準1-94-18]《あかげ》の馬の背から矢継ぎ早に指示を出す。その手に槍はなく、抜きはなった長剣が血に濡れていた。  だが、戦の大勢を見てとった時から、剣はふるわれていない。むしろ、馬を走らせて、敵味方の間に割ってはいることの方が多くなっている。今しも、羅旋のすぐ目の先で足に傷を負った歩卒の耳もとに、短刀がつきつけられるところだった。 「よせというのが、わからんか」  すぐ脇まで|※[#「馬+華」、第3水準1-94-18]《あかげ》を軽く走らせ、鞍からすべり降りるやそのまま、羅旋の腕は本来の自分の配下をはりとばした。  腕のひと振りで、短刀もろとも、その若い男はふっとんでいた。 「と、頭領《とうりょう》!」 「おう、まだ俺を頭領と呼ぶ気があるんなら、俺の命令も承知しているはずだな。耳なんぞ、いくら持ってきたって、恩賞はやらんと何度いったらわかる」  雷のような声で一喝されて、若い男はその場にはいつくばった。  戦場の功績の評価は、敵を何人殺したかが目安になる。それには証拠となるものが必要だが、まさか、自分が殪《たお》した敵の遺骸を全部かつぎ集めて証拠とするわけにもいかない。そのため、敵の身体の一部を斬り取り、数を申したてる——というのが慣例となっていた。耳、それも左耳の数で敵兵の損害を数えるというのが、だいたいどの国でもどんな戦でも常識となっていた。  時には、まだ息のある人間の耳を切り落として持ってくることも、戦闘とは無関係の人間——女子供のものまで集めてくるふとどき者も、長い歴史の中にはめずらしくなかったのである。  だが、羅旋は自分の麾下《きか》には、その慣行を厳禁していた。残酷だから——という理由ではない。  この当面の戦では、敵味方を問わず、人的な損害を少しでも減らしたかったのである。  現在の羅旋が〈琅〉の人間なら、相手も〈琅〉の民なのだ。すくなくとも、歩卒はそれぞれの主人に駆りだされただけで、自分の意思で羅旋たちに敵対したわけではない。戦車の上でふんぞりかえっている甲士は、おいそれと見逃すわけにいかないのと同様、歩卒たちの罪を問うわけにもいかないではないか——。  もっとも、この措置はただの慈悲心から出たことではなく、もう少し深い考えが元になっているのだが。  とにかく、頭を地面にすりつけて、許しを乞う配下の存在を無視しておいて、羅旋は敵兵の方へ手をさしのべた。 「立てるか」 「————」  まだ、少年といっていい年齢《とし》だった。それがくちびるをかみしめて、無言のまま首を横に振った。右脚の腿《もも》を槍に突かれて、血まみれになっている。羅旋は、ひょいと少年のそばにかかみこんだ。  少年の顔をのぞきこんだ、羅旋のその眼は緑色をしていた。  陽《ひ》と風雨とにさらされた赤銅色の顔色に、ひどく似合いの眼だった。鼻の下にたくわえた髭《ひげ》が、ひきしまった印象を与える。どこから見ても、一団の首領にふさわしい漢だった。  おどろく少年を無視して傷口を調べ、激痛に悲鳴をあげるのもかまわずありあわせの布で、手早く止血をする。それから、あっけにとられてようすを見ていた、先の男を手招きしてから、 「——なんだ、おまえだったか、不期《ふき》」  ようやく、自分がはりとばした男の名を思い出したらしい。 「はい——!」  男——といっても、傷ついた少年より少し年長なだけである。名を呼ばれて、不期はふたたびその場に平伏する。 「先の戦で、あやういところを助けていただいた不期です」  この男はまだ馬に慣れていない頃、乱戦の中で落馬した。それを単騎、敵中にとってかえし、自分の馬の背に救いあげたのが羅旋である。一軍の将であり、命の恩人でもある漢ににらみすえられて、不期は息もできない状態だった。 「そうか。これだけはいっておく。俺の命令に従う気がないなら、無理にとはいわん。ただし、その時はこの軍を離れろ。不要な奴が何人いても無駄なだけだ」 「はい!」 「わかったら、この孩子《こども》をおまえの馬に乗せてやれ。責任もって無事に連れてかえ、——そういえば、おまえ、名は?」  と、こちらは少年に対する問いである。回答は、やはり無言のままで首を横に振ることで表現された。 「名がないのか。親は、家は?」  これも、同様の答えである。 「そうか、わかった。では、とにかく安邑《あんゆう》まで連れて帰ろう。あとのことは、それからだ。いいな、不期——」  と、告げて、不期がうなずいたところで、ようやくこの場に別の人間があらわれた。 「頭領、こちらでしたか。さがしました」  馬から飛びおりたのは、人一倍背の高い若者だった。身のこなしがきびきびと軽く、不期たちよりよほど馬に慣れているようすである。 「夫余《ふよ》か。どうなった」  と短く尋ねたのは、戦の趨勢《すうせい》についてではない。  訊かれた方も心得たもので、 「主だった者たちは、すでに顔をそろえました。我が方の負傷者は、十人のみ。重傷者はひとりで、これは落馬によるもの。あとの負傷者は、別に集めているところです。すぐにでもこの場を離れられますが」  よどみなく、羅旋の満足のいく答えを返した。  先に蹴散らした連中が、態勢をたて直し襲いかえしてくるとは思えないが、戦のあった場所、ひとところに長くとどまらない、というのが羅旋の戦のやり方だった。武器の回収もそこそこに逃げていくやり方は、野盗に似ていると陰口をたたく者もいたが、羅旋はとりあわなかった。そのとおりだったからである。  ただし、武器は回収なかばにすることはあっても、負傷者を見捨てて逃げることだけはしなかった。どうしても助からないと判明した者は別だが、生き延びられる者はすべて——敵味方を問わずにすくいあげていくのである。  ただし、行動はともにしない。主力の騎馬兵の一団とは別に、護衛をつけて迂回路《うかいろ》をゆっくりと追ってこさせるのが常だった。 「今、行く」  てきぱきと報告する若者にむかって、羅旋はのっそりと立ち上がりながら応じた。 「馬は?」  ここまで乗ってきた|※[#「馬+華」、第3水準1-94-18]《あかげ》は見向きもせずに、そう問いかける。夫余と呼ばれた若者は、無言で背後をふりかえった。鞍だけ置いた馬が二頭、たたずんでいた。  どちらも、堂々たる体格の馬である。一頭は鹿毛《かげ》、一頭は黒。 「どちらでも、お好きな方を」  羅旋は鹿毛の方の手綱を受け取った。その鞍に手をかけるや、ひらりと飛び乗った。まるで体重がないかのような身のこなしは、がっしりと大柄な体格からは想像もつかない軽さだった。  |※[#「馬+華」、第3水準1-94-18]《あかげ》の手綱は、夫余がとった。|※[#「馬+華」、第3水準1-94-18]《あかげ》は、全身、汗にまみれ息も荒い。乗りつぶされる寸前、あぶないところでやっと乗り手から解放されたといったようすでぐったり頭を垂れていたが、羅旋に続いて夫余が走りだすと、なんとかついて走りだした。  初秋の風が、西の草原を渡ってきた。その風に髪を吹きなぶらせながら駆ける羅旋の背後に、一騎、二騎と騎馬兵が集まって来る。だれが命令を発するわけでもなく、何か合図があるわけでなく、だが、たしかに彼らはひとつの意思に引き寄せられるように集まり、やがて一団となって東をめざしたのだった。 〈琅〉の国都、安邑《あんゆう》は喪中だった。  低い城壁で囲まれた城邑《まち》の内部は、東西の商人をのみこみ、人の活気でにぎわっているが、通りを馬で行く羅旋の耳にも、音曲《おんぎょく》はいっさい聞こえてこなかった。  喪は士大夫たちの間のだけのことで、庶民にまで命令を発したわけではないのだが、前国主は、それなりに人々の間に人気があったらしい。 〈琅〉公・藺孟琥《りんもうこ》が二十歳代の若さでみまかったのは、つい先日、まだ夏の暑さが空気の中に残っていたころである。  死因は病死——というよりは、衰弱死であった。  幼い時から病弱で、この春には危篤さえ伝えられた彼だが、奇跡的に回復して夏を越すことができた。彼の気力と、周囲の手厚い看護の賜物《たまもの》といわれていたが、それも何年も寿命を延ばすほどではなかったのである。  おそらく、春先に実の伯父・藺仲児《りんちゅうじ》との戦のために安邑を離れたのが病身にこたえたのだろう、というのが、太医《たいい》としてかたわらについていた五叟《ごそう》老人こと莫窮奇《ばくきゅうき》の診断だった。  安邑を占拠した仲児に対して、孟琥はもうひとりの伯父・藺如白《りんじょはく》と連絡をとり、国都を脱出して決戦の場を遠くはなれた草原へと持ち出した。  藺仲児の軍を撃破したのは、如白と赫羅旋だが、若い国主を陣中に擁していなければ、その時点で人心がどちらへ傾いたか断言はできない。藺孟琥は、国主として国の将来を選択し、その責任を完《まっと》うしたのである。  だが、その無理が結果的に孟琥の命を縮めてしまった。 「もっとも、その前から何やら、盛られていたものの影響もあったようだ。大きな声ではいえぬがな」  とは、やはり五叟老人の弁である。とはいえ、その犯人と目される人間ももはやこの世の者でない以上、よけいな波紋はたてるべきではないという羅旋の判断で、これはふたりだけの胸におさめられ、伯父・如白の耳には届けられていない。 「やはり、戦場へなどひっぱり出すのではなかった」  と、嘆く伯父の如白に対して、孟琥は病床から笑って答えたそうだ。 「あの戦で仲児伯父が勝っていれば、私もそこまでの命だったのですから。それが半年も生き延びて、後を伯父上や羅旋に任せて安心していけるのです。悔いることはありませんし、悲しむ必要もありませんよ」  臨終は眠っているうちに訪れ、苦痛の色もなかったのが唯一の救いだったと、羅旋は後から聞いた。  その時、彼はおのれの本拠を置いた茣原《ごげん》という辺地の城邑に在ったからである。茣原で、西の戎族の動きに目を配りながら馬を育て、同時に馬を乗りこなせる兵を育てる。これが〈琅〉の内乱後の、羅旋の当面の仕事となっていた。  国主|崩御《ほうぎょ》の報を聞いた時には、羅旋はとるものもとりあえず安邑にはいった。葬儀は、新国主となった藺如白の名でとり行われるのだが、羅旋はその如白の義子《ぎし》——つまり、養子格の扱いを受けていたから、欠席はできなかったのだ。  ちなみに、養子格といったところで名が変わるわけでなく、相続権があるわけでもない。ただ、互いに父子の礼をとりあうだけの話なのだが、ゆくゆくは後継者に指名される可能性もないわけではない。  この風習は、もとは遊牧の民たる戎族のものだといわれている。  危険の多い生活をしている戎族は、信頼できる者に身辺を守らせる必要がある。そして、あかの他人よりは父子の関係の方がより信頼がおけるのは、当然の話である。相続の権利が得られる可能性があれば、守る方もその分、真剣になる道理である。一説には、血縁のわが子を失っても家系が絶えないための用心だというが、これは、家というものを重んじる中原《ちゅうげん》の人間の発想による理屈だろう。  とにかく、羅旋は現在、国主・藺如白の義子としての待遇と義務をその身に負っていた。ちなみに、如白の義子は羅旋ひとりではないが、年齢、実力ともにもっとも長じていたのは羅旋だった。  むろん、成り上がり者という批判も不満もあるが、今のところ、それはまだ表面化していない。国主・如白がまだ壮年の域にあって、後継者問題が起きるには時間があること。また、如白がしっかりと実権を握っている一方で、羅旋は安邑から遠い茣原に腰をすえて、| 政 《まつりごと》には口を出す気配を見せないこと。そして、滅んだはずの仲児の一派の残党の、ささやかな抵抗がまだ続いていることがその理由だった。  乱の鎮圧を、羅旋の率いる騎馬の一軍が一手にひきうけていたのである。  むろん、〈琅〉にも戦車を中心とした正規軍はある。しかし、乱の規模はおおむね小さく、正規軍を出すほどではなかったし、内乱をのりきったあとは、兵のひとり、戦車の一台も惜しかった。  なにより、春から夏にかけての農繁期に、農民を兵として駆りたてるわけにはいかなかった。  赫羅旋ひとりに面倒をおしつけられるなら——しかも、本人が進んで始末を申し出ているのなら、やらせておけばちょうどいい。羅旋の配下なら、耕作をしない戎族か侠《きょう》か、土地を離れた無頼者ばかりだ、野盗まがいの真似をさせておくよりはずっとよい、というわけである。  この半年の間に、羅旋は五度、戦に出ている。藺孟琥がみまかってからは、これが二度目だ。葬儀のために安邑にもどって、翌日には討伐のために安邑を出たのが一度目。今回は、ある小邑が襲われたと聞いて、茣原から急行した。  ほとんどが、戦と呼ぶのもおかしいほどの小競り合いである。ほとんどの場合、さしたる準備も理念もなく、ただ藺如白に反感をつのらせ、不満を爆発させただけの起兵だった。 (あれでは、人はついてこない)  羅旋は、そう見ている。  如白の〈琅〉公継承に異議をとなえ、逃亡中の仲児の遺児の正統性を叫んで叛旗をひるがえせば、〈琅〉の民がいっせいに蜂起すると思いこんでいる。  だが、それに同調するのは如白が〈琅〉公になって不利をこうむる者——つまり、仲児の下で甘い汁を吸っていた一部の卿大夫だけで、戦の際に前線に立つ歩卒にとっては迷惑な話なだけなのだ。  人心を失った軍は、羅旋の騎馬兵の急襲をうけると、一度に崩壊してしまう。歩卒たちは、彼らの主人を守る気など最初からないのだから、無理もない。さらにいえば、歩卒といっても、もともとは土地を耕す農民たちである。その土地の所有者である士大夫たちの命令には逆らえず、戦のたびにひっぱり出されてはくるが、時には武器もろくに扱えない者もいるのは、今にはじまった話ではない。 (あれでは、勝てない)  とも、羅旋は思っている。  では、どうすれば勝てるか——。羅旋は、仲児との内乱からこちら、ずっと思いめぐらしている。  如白側の武力が強くなれば、無益な反乱を起こそうという者も減るだろう。そうなれば、とりあえず、この〈琅〉一国内は平穏に保てる。とにかく、早急に国内を安定させなければ、すぐ東に国境を接する〈衛〉にいつ何時、攻めこまれるかわからないのだ——。  国主の館の前で、羅旋は馬を乗り捨てた。配下のひとりを走らせ、如白への口上を伝えた上で、彼自身は案内も乞わず奥へ入っていった。 「——揺珠《ようしゅ》どのは?」  と、侍女のひとりをつかまえて尋ね、先触れをさせて足を踏み入れた先は、もとは〈琅〉公の内殿として使われていた一角である。  本来、公の妻子、側妾《そくしょう》といった女たちの住まいだったが、前国主の孟琥には妻も子もなかったために、人の数は減っている。ちなみに、如白の妻も十年以上前にみまかっており、今は、孟琥の妹・揺珠がわずかな侍女たちを相手に暮らす場所となっていた。 「赫《かく》将軍でございます」  と、とある部屋の前で侍女が告げた。  声が幾分、緊張していたのは、おそらく羅旋の周囲にいまだに漂う、戦塵の微妙な匂い故にちがいない。 「お待ちしておりました。ご無事のおかえり、なによりでございます」  房の奥から、細い、銀の糸のような声が流れ出してきたとたん、殺気に近いそれが、消え失せた。  声の主を見て羅旋が太い眉を寄せたのは、彼女が喪服である荒い白麻の衣装を身につけていたからだ。  藺氏の一族である彼女が、兄のために喪に服するのは当然の話だが、羅旋が眉をひそめたのは、この少女がまだ二十歳にもならないうちに何度、この荒麻の喪服をまとったかに思いいたったからだ。  形だけの夫のために、一度。夫の祖父にして〈魁〉の王であった老人のために、一度。そして、今は兄のために。  だが、彼女の表情は意外に明るかった。  いや、明るいというよりは、顔色がよいという方が的確かもしれない。実の兄を失ったばかりである。両親はすでになく、親しい血縁は伯父・如白ひとりとなった頼りない身で、白い面にはこの年齢にはふさわしくない憂愁の色が濃い。  だが、揺珠が〈魁〉の王宮に在《あ》った頃から知っている羅旋の目には、彼女の変化もしっかりととらえられていた。  実権を奪われ屈託をかかえ、人の顔色をうかがって生きていた老王のかたわらで、やはりひっそり、息をひそめるように暮らしていた頃の彼女は、まるで咲く前にしおれた花だった。玉公主《ぎょくこうしゅ》と呼ばれるほどの美しさは、未熟なまま砕け散るかと、いたましく思っていたのは羅旋だけではない。  意外な時代の流れで故国にもどっても、頼りの兄は病身で、伯父に命と国主の座を狙われている状態。さらに、夏は暑く冬は乾燥して寒い〈琅〉の気候にさらされて、きっとこの花は枯れてしまうにちがいないと、誰もが思ったにちがいない。  だが、揺珠は枯れなかった。  兄の身辺に気をくばり、看病をし、内殿の侍女たちの監督まで手落ちなくやってのけたのは、〈魁〉の王宮で老王の世話をしていた経験がものをいったのだろう。  そして——。  どうやら、この花は〈琅〉の気候に合っていたらしい。  ちょうど、日陰でひょろひょろと伸びた植物が、移植されると、しっかりと枝葉を太らせ、芽を持つのに似ていた。どれほど過酷だろうと、本来適した環境ならば、花はきちんと蕾《つぼみ》をつけるのだ。  とはいえ、まだまだ蕾のままだし、おそらく咲いたとしても、豪奢ということばなどからは無縁だろう。清楚《せいそ》な、白い花といったところか。〈琅〉の草原地帯には、春になるとそんな白い花が一斉に咲き乱れるが——。 「どうなさいました。人の顔を見て。何か、わたくしの顔についておりますでしょうか」  揺珠は、声を出さずに笑いながら、膝の上から糸屑をはらった。  侍女たちを相手に、糸を紡いでいたらしい。  ちなみに、〈琅〉では麻や葛《くず》といった繊維の採《と》れる植物があまり育たない。桑《くわ》も同様だから、養蚕《ようさん》に頼ることもできない。かわりに、獣——馬や羊の毛を紡いだり固めたりして布類を作る。戎族の暮らしから学んだものである。  獣臭い厚手の布を嫌う者もいないではないし、衣服用にはあまり向かないが暖かく、中原ではそれなりに珍重される。麻や絹と交換することもできる。〈琅〉の産物のひとつともなっている品である。  国主の親族がそんな手仕事を——と、驚くにはあたらない。どの国の国主夫人でも士大夫の妻でも、毎日遊んで暮らしている者はほとんどないといってよい。布や糸を扱うのが婦人の仕事である以上、身分の上下を問わず、仕事にいそしむのは女の当然の徳なのである。 「いや——。元気そうなので、安心しただけだ」  実は、揺珠の笑顔に見とれていたとは、さすがに口にできなかった。照れるような漢ではないし、羅旋の好む女とはこの少女は遠くかけ離れている。だが、だからこそ、彼女に対して遠慮が生じるのだろう。そのくせ言葉づかいがぞんざいで、侍女たちの顰蹙《ひんしゅく》をかっているが、これは〈魁〉以来の習慣で、今さら、急に変えられないという事情もあった。揺珠自身も慣れているため、また笑ったのみで、 「おかえりをお待ちしておりました。義兄上《あにうえ》」  上座を譲るために、立ち上がる。衣ずれの音が、羽のような軽さを強調した。  そういえば、声こそたてないが、よく笑うようになった。それも、見ている者の緊張をほっと解くような、おだやかなものになったのは、彼女自身の心をしばっていたなにかがほぐれたからなのかもしれない。 「その、義兄上というのは、やめてくれ」  と、とたんに羅旋が肩をすくめ、やりきれない顔をして柄にもない遠慮の仕草を見せたため、侍女たちがいっせいにくすくすと笑いをもらす。 「では、どうお呼びすればよろしいのでしょう。亡くなった兄上は羅旋さまを兄と思って頼れと仰せでしたし、伯父上の義子となられたのですから、義兄上とお呼びしてもおかしくはありませんでしょう」 「それは、形だけのことだ」 「ならば、形だけのことですから、どうぞ上座へ」  笑うと、白い花がほころびかけたように見えた。〈魁〉時代の揺珠を知っている者に、この笑顔を見せたら驚くだろうなと思いながら、逆らいきれずに羅旋は勧められた筵《えん》の上に座を占めた。 「土産《みやげ》だ」  脚を組んで、行儀悪い座り方をしながら、ふところから布袋をひっぱり出す。逆さにすると、手のひらの上に拳《こぶし》よりひとまわり小さい石が転がり出てきた。  それが、ただの石ではない。白い玉なのである。色が均一で、半透明の石の中心まで夾雑物《きょうざつぶつ》のまったくない、最上等の品であることはだれが見てもひと目でわかった。  揺珠は、宝石や金銀といった贅沢品はあまり好まない。今も、髪には木製の櫛《くし》がひとつかざされているだけで、他に装飾品ひとつ、身につけていない質素さである。質素をこころがけているというよりは、それが習慣になってしまっているのだろう。  だが、上質の玉ならば、直接身につけずとも財産のひとつになるし、そもそも、羅旋が揺珠に贈れる物といえば、こんなものしかなかった。  羅旋がおのれの本拠としている茣原は、その周辺では唯一、泉を擁している城邑である。そして、茣原より西では上質の玉石が採れる。ために、茣原は玉を求めて来る中原の商人が必ず足を止める城邑として、また、さらに西方の戎族が玉を売りにくる場所として、辺地にしては人の多い、にぎやかな場所となっていたのである。  その特産の玉を、羅旋は直接、揺珠の手に渡した。 「まだ、原石のままだ。腕のいい細工人をさがして、好きな意匠を彫らせるといい。珮玉《はいぎょく》に作ると映えるだろう」 「ありがとうございます。大切にいたします」  揺珠は、ほっそりとした両手で石を包むようにして、礼を述べた。 「変わりはないか。何か、足りない物があれば、すぐに調達するが」 「ご心配になりませんよう。毎日、おだやかに暮らしております。これ以上のことを望めば、天罰がくだります。——ああ、変わりといえば、五叟《ごそう》先生のところにお客人がいらしております」 「客——? 何者だ」 「存じません。ただ、義兄上がもどられたら、そう伝えてくれるようにと五叟先生が」  もともと、無用の詮索をするような少女ではないし、揺珠は医師でもある五叟老人に全幅の信頼を置いている。 「義兄上にお目にかけるために、待たせてあるそうでございますから」 「ふむ、誰だろう。あいつが、そんなにもったいぶるとは」 「お呼びしますか?」 「ここへ? いや、俺の方から行く——」  口でいうだけでなく、身軽に立っていこうとする。五叟老人は、ここ半年ほど、〈琅〉公の館の中に一室を与えられて、太医をつとめている。もともとは羅旋と同様、一定の住まいというものを持たなかった人物なのだが、どういう風の吹き回しか、時おり薬石の採取に出かける以外はおとなしくしている。  揺珠の居室からはそう遠くない棟だから、行ってすぐもどってくるつもりだったのだろうが、その前に、侍女がひとり、うずくまった。 「殿下が、お呼びにございます」 「——如白、いや、義父《おやじ》どのが?」 「はい、至急とのこと。お願いいたします」  羅旋は厚い肩でひとつため息をついて、揺珠をふりかえる。 「五叟に、俺の宿舎に行っているよう、伝えてくれ」 「かしこまりました」  揺珠の笑顔と一諾《いちだく》を背に、羅旋は外へ出た。冷ややかな乾いた風が、彼の周囲に小さな渦を巻いて、過ぎていった。      (二)  藺如白は、戎族の容貌を持つ壮年の漢である。白髪まじりの髪も髯も茶色く、その瞳も色が薄い。彼の父親——三代前の〈琅〉公もその妃のひとりだった母も、黒髪に黒い眼だったが、〈琅〉のほとんどの民には、多かれ少なかれ戎族の血が流れている。如白のような者は、めずらしくはなかった。  めずらしくはないが、その容姿でいろいろと不利な立場に立たされたこともあっただろうと、羅旋は思う。彼自身、口には絶対にしないが、同じようなことを経験してきたからだ。そして、如白も羅旋と同様、不遇を嘆いたことはない。だが、たしかに新〈琅〉公となって以降の彼の方針には、そのころの苦労が反映されていた。 「——たった今、〈征〉から使者が到着した」  羅旋の顔を見るなり、如白はそう切り出した。  あいさつをする暇も乱の討伐の報告も要求せず、部屋に足を踏みいれるなり言葉が飛んできた。  いきなり話の本題に入るのが、如白の最近の習慣である。中原《ちゅうげん》の〈魁〉国に何度も赴《おもむ》いている彼は、そのつもりになれば中原式の作法を完璧にこなしてのける。だが、繁雑で形式だけの礼を、如白は徐々に簡素化するつもりでいるらしいのだった。  彼と羅旋は形の上では義理の父子となっているが、もともと年齢の離れた友人同士であったせいもあって、改まった礼が執りにくいという事情が双方ともにある。公の正殿での面会ではなく、羅旋を私室の方へ呼んだのも、最初からよけいな礼を省くつもりだったのだろうし、羅旋もある程度は予測していた。  戎族風に脚を組んで上座を占めていた偉丈夫から、その言を聞いた時も、ちいさくうなずいたのみである。  たいして広くもない室内には、他に三人の人影があった。三人とも、いわば如白子飼いの武人たちである。もっとも若い方子蘇《ほうしそ》という者で三十五歳、最年長の羊角《ようかく》は七十歳の高齢である。この一座の中では羅旋がもっとも年少となるが、臆《おく》することなく、如白の真正面の座にどかりと脚を組んだ。 「——それで、なんと?」  それでも他の三人の顔を観察し、軽く黙礼を流してから、羅旋は先をうながした。 「仲児の子を——璞《はく》を捕らえたから、護送する、と申してきた」 「〈征〉へ逃げこんでいたのか」  先の内乱で敗れた藺仲児の子、三人のうちふたりまでが殺された。ひとり、長子の璞だけが行方をくらませていた。  小規模ではあっても叛旗が時おりひるがえるこの状況で、敗軍の将の遺児という存在は、十分に名目と旗印に成り得る。ために、如白たちはこの半年の間、懸命にその足どりを追っていたのだ。だが、 「〈衛《えい》〉あたりに泣きついて、かくまわれていると思っていたが」 〈征〉にまで足を延ばしていたとは、正直、意外だった。  それは、羅旋ひとりの感想ではなかったらしく、羊角がゆたかな白髯《はくぜん》を揺らして肯首《こうしゅ》してみせた。 「〈衛〉の耿無影《こうむえい》は策士《さくし》だからの。実際、一度は〈衛〉にすがった形跡がある」  他国の反対勢力を飼っておくことは、決して損になることではない。隙を見て武力を与えて帰国させれば、手を汚さずにその国を半属国化できる可能性がある。それを、耿無影が考えなかったはずがないとは、だれもが思ったようだ。それほど、耿無影は評価されていた。 「だが、今はあの男も〈琅〉とは事を起こしとうないと見えて、体《てい》よく追い払うてしもうたらしい」  そうだろうか、と羅旋はちらりと思ったが、敢えて異議は唱えなかった。些細なことだからだ。おそらく、将来的には〈衛〉は〈琅〉と事を構える意思があるはずだ。ただ、今回は璞自身に利用価値があるかないかの問題だったのではないか。傀儡《かいらい》に仕立てる人物は、おろかであってはならない。思慮が足りない人間は、他の人間にとっても操りやすい存在だからだ。  適当に利害計算のできる頭と器量がある方が、傀儡としては適当だ。操《あやつ》り手は、紙一重だけ、傀儡より上手《うわて》であればよい——。  耿無影の考えそうなことだ。  一度、会っただけだが、羅旋は耿無影という漢《おとこ》の腹の底をある程度読めると確信していた。 「それで——〈衛〉を追われて、〈征〉へ逃げこんだというわけか。しかし、〈征〉の魚支吾が、何故、何が目当てでわざわざ送りかえしてきた?」 〈征〉は、中原の東側を占める強国である。西の端にあって距離的にも、文化的にも遠い〈琅〉に、わざわざ使者を送る利点はほとんどない。むしろ、他で見捨てられた者を保護してやることで、仁者《じんしゃ》との名声を得ることを考えそうな漢なはずだが、と、これも羅旋は面識のある経験上から思った。  今回のことは、〈琅〉と、当面の敵の〈衛〉に対して面当てができる、絶好の機会だったはずだが。  その質問には、方子蘇が答えた。髪は黒いが、目の色が薄い。顔だちも少し彫りが深く、戎族の血が濃く出ている男である。 「魚支吾は、〈琅〉と誼《よしみ》を通じるためといってよこしているそうだ」 「誼?」 「つまり、手を結びたい、璞はその手土産がわりというわけだ」 「何のために」 「〈征〉は今、〈衛〉と一触即発の状態だと聞くぞ。〈鄒《すう》〉の国主が逃亡して〈衛〉に併合されて以来、二国はまともに国境を接することとなってしまったからな」  この春、〈衛〉の耿無影が軍を動かしたのは、もともと〈征〉の魚支吾の動きを牽制《けんせい》するためだった。それは、兵の数やその内容——ろくに訓練も受けていない歩卒が多く動員されていたことなど、よく調べれば十分に推察できたことだったが、〈鄒〉の国主はそうは思わなかった。 〈衛〉が、ついに〈征〉と正面衝突するのだと思いこんだのだ。二大国のはざまにあって、双方に臣下の礼を執《と》ってきた〈鄒〉は、どちらの味方をすることもできなかった。二国がぶつかれば、確実に〈鄒〉は大軍に蹂躙《じゅうりん》される。  いや、国がなくなるのはいいが、どちらが勝ったにしてもかならず背信《はいしん》を問われる自分の立場が恐ろしくなったのだろう。 〈鄒〉の国主は、〈衛〉軍が動くと同時に、風をくらって逃亡してしまった。  労せずして一国を占拠した耿無影がそれを放置したのは当然のこと、〈征〉の魚支吾も、〈鄒〉の民までがその行方を捜そうともしなかったのは自業自得とはいえ、哀れな話でもある。  この結果、〈征〉と〈衛〉はかなりの距離で直接、隣りあうこととなった。むろん、今までも国境を接する場所はあったのだが、分水嶺《ぶんすいれい》であったり川や湿地帯であったり、簡単に人が行き来できないような土地が多かったのだ。  だが、〈鄒〉を通過すれば、容易に大軍を互いの国に投入できるようになった。ことに、すぐ近くに新しい都を建設中の〈征〉の方が、対応を急いだのも無理ない話である。  実際、魚支吾はさっそくに〈衛〉へ使者を送っている。 「〈鄒〉は旧来、〈征〉に臣下の礼を執っていた国。その国主が不在になれば、その土地が〈征〉に帰するのは当然のこと。是非にも、〈征〉にご返還くださるよう」  そんな論旨で〈衛〉にのりこんだ使者は、耿無影に直接、引見され——結局、かるくあしらわれて帰国することになる。 「〈鄒〉は、〈衛〉にも臣従するとの一札を入れている。〈征〉の領土だったとは、寡聞にして知らぬこと。万一、〈鄒〉が〈征〉の臣だったとしても、〈鄒〉は〈鄒〉の国主ものであり、民のものである。躬《み》は、民を置き捨てにした国主どのにかわって、〈鄒〉を一時おあずかりしているだけのことだ。返すのならば、〈鄒〉の国主どのにお返しするのが筋というもの。〈征〉王どのが国主どのをさがしてきてくださるならば、よろこんで即座にお返ししよう」 〈鄒〉の地は、百来《ひゃくらい》将軍に事実上の統治をさせているのだから、この無影の論理もかなり無理があるのだが、支吾の方ももともと〈鄒〉のことを考えての話ではない。犀利《さいり》で知られた耿無影に、そのあたりの凡庸な使者で歯がたつ道理もなく、両国の確執を深めただけの結果となった。 「その上、これから冬にかけては、戦の季節だ」 「ふむ、つまり——一朝、事が起きた暁《あかつき》には、〈琅〉に〈衛〉の後背《こうはい》を衝《つ》けと?」 「まだ、そこまでは」 「だが、要はそういうことだろう」  羅旋は、緑色の眼を正面の如白に向けた。昼間や明るい場所では緑色だが、闇の中ではこの眼はまるで、野獣のような光り方をする。実際、闇の中でも昼と同じぐらい見えるという。戎族の、ほんのひと握りの人間に時おり出る夜光眼《やこうがん》である。  それが、扉をしめきったうす暗い室内で、かすかに底光りした。 「どうする気だ、如——いや、義父どの」 「その前に——別の件で、おまえの意見を聞いておきたい。羅旋」 「意見?」 「璞《はく》の処遇のことだ」 「ああ——」  羅旋は、ちらりと天を仰いだ。忘れていた、といった表情だった。 「——ここに居る者たちの意見は、すでに聞いた。あとは、おまえだけだ」 「なんと?」 「後顧《こうこ》の憂いは断っておくべきだそうだ」  ——公平に見て、璞という人間は出来がよくない。父親の仲児を見て育っているだけに、自分中心にしか物が考えられず、安邑にいる時から人には嫌われていた。  これは羅旋がうわさで聞いた話だが、従兄弟《いとこ》にあたる国主、藺孟琥《りんもうこ》が死ねば、父が新・国主でその次の〈琅〉公には自分がなるのだからといって、取り巻きを集め、安邑の民家で物や女を強奪するような真似までやっていたらしい。一度、さすがの孟琥が激怒して、牢に放りこんだことがあったらしいが、仲児や周囲の者たちの抗議にあってすぐに釈放となり、恨みをかうだけの結果となったという。  高貴の家に生まれた以上、他人が無償で奉仕してくれるのは当然だと思っている人種である。なにも耿無影の肩を持つわけではないが、〈衛〉がこの男を放逐《ほうちく》したのは、正しい判断だと羅旋は思った。  この手の人間は、巧言令色《こうげんれいしょく》に弱い。おだてられて何をやるかわからない一方、何をしてやっても恩に着てくれない。たとえここで彼の助命を決めたとしても、それで恨みを消すどころか、倍増させていずれは騒動の種となってくれることは火を見るよりも明らかである。他の三人の意見も、正しかった。だが——。 「生かしておいた方が、よい」  羅旋がそう答えたのは、如白が以前から実の甥を助けたいといっていたからではない。判断には、きちんと根拠があった。 「ひとりで、何ができる。他人に頼らなければ、生きていけないような奴だ。周囲に人がいなければ、これ以上騒動は起きるまい」 「しかし、〈琅〉にいる以上、人は集まる。かつぎだされる危険性は常にあるぞ」  とは、方子蘇の言。 「〈琅〉の国内に置かなければいい」 「——どういう意味だ」 「どこへやると申す。〈征〉からは突き返されおったし、いまさら〈衛〉が預かってくれようわけもない」  羊角老人も口をそろえる。 「西ならどうだ」 「西——?」  不思議そうに問いかえしたのは、それまでじっと黙って聞いていた、最後の漢だった。ゆっくりと顔をあげた漢の、年齢の頃なら、壮年——ちょうど如白と同じぐらいだろうか。体格は人並みで、顔だちもこれといって特徴のない、平凡な容姿である。髪も目も黒く、純粋の中原の民とはっきりとわかる。名を廉亜武《れんあぶ》という。  武勇にすぐれているわけでなく、また学識に秀でているわけでもない上に、人見知りをするという漢だが、如白は彼に全幅の信頼を置いていた。彼が、どんな時にも常に沈着で冷静な判断ができるから、というのが理由のひとつだった。  その亜武が興味を示し、つくづくと羅旋をながめ回したのである。  羅旋もそれに応えて、緑色の目でじっとにらみかえした。 「西——とは?」 「茣原の西にも、土地はある。人も住んでいる」 「戎族の土地か。だが——」 「中原の人間とは、相いれない——か。それは、彼らの土地を奪う人間とはそうだが、利害の異なる者に、彼らは無関心だ」  そもそも、戎族と中原との対立は、土地の利用の仕方の相違から始まっているといってよい。中原の民は、農耕を主として暮らしている。土地を耕さなければ、生きていけない。ところが、水の豊富な中原には適した農耕も、乾燥地帯の西方では土地の荒廃につながってしまうのだ。  雨の少ない西では、いったん草の根の張った表土をはがしてしまうと、容易には草が生えなくなってしまう。それどころか、風が土をさらい、禿げた土地をさらに広げてしまう。ひとところ、農地を開拓すれば、それに数倍する土地が砂漠と化すのである。  馬や羊といった家畜に草を与え、その皮や肉を利用して生きている戎族にとって、中原への進出は死活問題だった。  もともと、土地の所有の概念のない戎族と、土地にしがみつく中原の民の利害が、真正面からぶつかったことが、互いの生活様式や容姿に対する反感とあいまって、際限のない憎悪に発展してしまったのである。  逆に、たとえば玉石目当ての商人や採集人が、戎族の土地に入ってもあまり危険ではないのは、彼らが最初から土地とは無関係だからだ。 「しかし、西といっても広い」 「甘泉《かんせん》はどうだ」  亜武は、眉をあげた。  茣原のさらに西に、甘泉という邑《むら》がある。名のとおり、ちいさな泉を中心とした小邑である。一応、〈琅〉の国内ということになっているが、茣原からさらに、馬で五日の距離がある。中原からは遠く離れすぎているのと、泉の量が一定せず、年によってはまったく涸《か》れてしまうために茣原のような城邑には発展できなかったが、戎族の一部が住みついている。玉や交易品を扱う商人たちとの接触もあるため、中原の人間にも寛容だ。そして——。 「そういうことか」  廉亜武は、片頬だけで笑った。笑っても、妙に笑顔が印象に残らない男である。羅旋も、唇《くち》もとだけの笑顔を返した。こちらは一瞬、雲間にさす陽光のような表情となった。 「そういうことだ。甘泉なら、頼めば人のひとりやふたり、預かった上に監視もしてくれるだろう」 「それを、私に頼みに行けというつもりか」 「頼めんか」 「——いや。行こう」  あっさりと承諾すると、廉亜武は如白に対して向きなおった。 「主公《との》、先ほどの私の具申《ぐしん》、撤回いたします」 「これ、亜武」  羊角老人があわてた。 「そう、簡単にてのひらを翻されては困るではないか」 「申しわけない、ご老人。羅旋の申しようももっともと思われましたので」 「どこが、もっともじゃ。処分する方が、のちのち心配の種がなくてよいではないか。それは、甘泉の族酋《ぞくしゅう》はそなたの妻の縁者じゃから、よもやまるめこまれて璞どのにつく恐れはないであろうが、それにしても——」 「いえ、殺さぬ方がよろしい。少なくとも、〈征〉の出方がはっきりとせぬうちは、璞公子には生きていていただきましょう」  容貌に似合いの、抑揚の少ない言葉に、羊角はとまどった。 「——〈征〉? 〈征〉が何の関わりがある。そもそも、璞どのを捕らえてきたのは〈征〉なのだぞ。しっかりとせい、廉亜武」  口調から察するに、処断派の急先鋒がこの血の気の多い老人なのだろう。 「璞公子を処分したあと、〈征〉が何事もいってよこさぬという保証がありますか、ご老人」 「老人老人と申すな。では、そなたは何故、魚支吾が何事か申してくると思うのじゃ」 「魚支吾もまた、策士だからです。璞公子を処分すれば、すぐさまいいがかりをつけてくるはず。自分の顔をたてて、助命してくれると思うたのに、信義に悖《もと》ることをしてくれた——と」 「莫迦《ばか》な。いいがかりではないか、それでは」  と、いってから、羊角はすぐに笑いだした。 「なるほど、それがいいがかりか」 「理由は何でもよろしい、〈琅〉を威嚇するのが目的です。直接に国境を接しているわけではありませぬから、すぐ戦になるわけではないでしょうが——のちのち、やっかいなことになるでしょう」 「それで、甘泉に置いておき、しばらくはようす見をしようとてか」  羊角は、しばらく羅旋と廉亜武とを同等にみくらべたあと、如白へ目を移し、 「ご満足か、主公」  皮肉っぽく、問うた。 「私は、おぬしらの意見に従うつもりだ。今のところ、意見は二対二の五分。どちらに決めるかは、これからおぬしらに話しあってもらいたい」 「いや、一対三じゃな。何故ならば、儂《わし》も亜武と羅旋に賛成しますのでな」 「ご老人」  方子蘇が、抗議の声を鋭くあげた。 「そのように、簡単に——」 「そう怒るな、子蘇。気まぐれや思いつきで寝返ったのではない。魚支吾をよく知るふたりが申すこと、もっともじゃと納得した。なるほど、今、璞どのを処分するのは簡単。だが、一度殺してしまうと、二度と生き返らせることはできぬとは思わぬか」 「あたりまえでしょう」 「死んだ者はどうにもならぬが、生きた者はまだ利用ができるとも、思わぬか?」 「利用?」 「さよう。たとえば、璞公子がおのれを捕まえて故国に送り返してくれた魚支吾に、感謝しておると思うかの?」 「いや——」 「あの公子は、魚支吾が人の信頼に足らぬ男だという、生きた見本、酒舗《しゅほ》の青旗《せいき》のようなものであろうが」  白髯の老人は、精悍な武人の容貌からは想像もつかないほど人の悪い顔で、にやりと笑った。 「この際、魚支吾の評判を少しでも落としておいて悪いことはあるまい」  そして、相対的に〈琅〉の評価は高くなる。〈琅〉は寛容な国だと、中原全土に知らしめることもできる。いや、今はたいした喧伝《けんでん》にもなるまいが、将来、役にたつことがきっとあるはずだ。 「これで、得心できたかの、子蘇」 「まだ、心底から納得はいたしかねますが——ご老人の仰せにはしたがいましょう。ご老人の判断にはこれまで、まちがいはありませんでしたから」  鋭い容貌から、まだ不服そうな眼光をはなちながらも、方子蘇もうなずいた。 「では、殿下。そういうことで——」 「うむ。では、廉亜武——甘泉の手配はそなたに任せる。頼む」 「よろしゅう、ございましたな」  羊角老人が片目だけに微笑を残して、如白を見やった。  如白も、苦笑をかえしながら、 「もうひとつ、問題が残っているぞ。支吾の申し入れの方だが」 「さて、そのことでございますが、殿下。つらつら儂が思うに、〈征〉は中原を再びひとつに統合することを目論《もくろ》んでおるように思われまする」 「それぐらい、儂でもわかる」  如白の苦笑は、さらに広がった。 「ならば、話が早い。支吾めは、おのれの代で統一を成し遂げるつもりでいると見ましたが、これは如何《いか》に?」 「同感だ」 「では、その時に〈琅〉の採るべき道を、今から考えておくべきかと申しあげまする」  つまり、〈征〉に抗するか、〈征〉の支配下にはいるか——。  たしかに、最終的な決断を今から決めておく必要はある。この先、中原の情勢がどう動くかは予断を許さないし、辺地にあって、一見、そういった勢力争いとは無関係に思える〈琅〉だが、どこでどう巻きこまれるか保証のかぎりではない。 〈征〉の軍を目前にしてから、どうしようと額を寄せ集めていては間に合わないのだ。 「——〈征〉には、屈したくはないな」  白髪まじりの茶色い髯《ひげ》をしごきながら、如白がつぶやいた。 「ですが、だからといって〈衛〉の耿無影のとりすました顔に頭を下げるのも業腹《ごうはら》ですしな」  同調してつけくわえたのは、方子蘇。 「要するに、だれにも頭を下げたくないというわけか」  羅旋が口をはさむと、方子蘇が目の隅でにらみ返してきた。 「そうは思わぬのか、おぬしは」 「俺——?」 「おぬしだとて、人に頭を下げるのは嫌いだろうが」 「人と国とはちがう」 「違わぬな。そうは思いませんか、羊将軍」 「さよう。心より信頼し尊敬できる相手にならば、頭も下げ膝も折りましょうがの。尊敬できぬ国主を持った時、苦労するのはわれら武人や士大夫だけではありませぬでの」  だからこそ、如白に仕え、如白のために仲児と戦ったのだと、言外に告げた。 「〈琅〉は、長い間、中原から継子《ままこ》扱いされてまいりました。蛮夷《ばんい》の国といわれ、何かにつけて劣っているといわれ、さげすまれ、公国として認められた後も、税《ぜい》だの庸《よう》だのなにやかやと厳しく取り立てられる。かというて、〈魁〉の兵が〈琅〉を守ってくれたことなど一度もございませなんだ。儂らは、ただ頭を下げることしか許されなんだ。衷王《ちゅうおう》陛下にはお気の毒だが、〈魁〉が滅んだ時、儂は、ああこれで〈琅〉は、どこの国にも頭を下げずにすむと思うた。——まあ、付き合いとして頭を下げねばならぬ時も、ありますがの。それは方便《ほうべん》というもの。対等の付き合いとしての礼というもの。隷属《れいぞく》とは異なるものじゃ。〈琅〉はもう、どこにもだれにも、隷属しておらぬし、未来永劫《みらいえいごう》、二度と奴婢《ぬひ》にはなりとうない」  口調は飄々《ひょうひょう》として、軽かった。だが、最年長の羊角老人の述懐だけに、その言葉にはずしりとした重みがあった。 「まして、魚支吾や耿無影のような、不実な策士には、仕える気にはなりませぬでの。殿下、万が一、〈琅〉が〈衛〉や〈征〉に屈するような時には、儂は自害して果てる覚悟でおりますのじゃ」  これまた、冗談かなにかと思わせるような、明るい口ぶりで告げると、羊角は口を大きくあけて笑った。白い歯並びがのぞいたところを見ると、少なくとも、そういう事態に立ちいたるころまで、この老人が生きていても不思議はなさそうだった。 「私も、ご老人に同感です」  とは、方子蘇。 「中原がどうなろうと、関係はない。〈琅〉は〈琅〉です。一国で、立ちゆくべきです」 「それは、中原の情勢が許せばの話だ。〈琅〉は、たしかに〈魁〉の一部であった。だれが覇《は》を唱《とな》えるにしろ、〈琅〉をとりこまねば、再統一を果たしたことにはならぬ。故に、かならず〈琅〉にも臣従《しんじゅう》を要求してくる」  これは、廉亜武の平坦な声。 「許さなければ、戦えばよい」  方子蘇が切り返す。 「戦って、勝てるか」 「勝つしかあるまいが」 「どうやって」 「〈琅〉を、強くすればよい」 「だから、どうやって強くする」 「それは、その——」 「まあ、待て。話が行き過ぎた」  ことばに詰まった方子蘇をなだめるように、如白が口を出した。 「つまり、この場にいる者は皆、たとえ中原が誰の下に再統一されようと、屈する気はないのだな」 「是」 「では、〈征〉との盟約は、断るか」  同盟といったところで、国力の変化で力関係も変わる。たとえ最初は対等の関係であったとしても、〈征〉が中原を圧すれば、たちまち主従の関係に変容してしまうだろう。距離的に遠いこともあるから、当面の心配はないにしても、そんな危険な種を、今からかかえこむわけにはいかない。羊角などは、はっきりとうなずかないまでも、顔つきで賛意を示していた。  だが。 「いえ——」  きっぱりとかぶりを振った者がいた。 「受けた方がよろしいでしょう」 「阿武——?」 「何故?」 「そなたが、魚支吾との盟約に賛成するとは、どういう風の吹き回しじゃ。羅旋のつむじまがりなら、横車《よこぐるま》を押してきても不思議はないが——」 「どういう意味だ、ご老人」  異議の声が羅旋からあがったが、羊角は、 「そうであろうが。そなた、〈征〉と手を結ぶのに賛成するか」 「いや——それは」 「ほれ、みろ。儂の予想どおりじゃろうが。問題はあるまい。いや、問題はそなたの方じゃな、廉亜武」  羅旋を軽くいなしておいてから、膝を進め詰め寄った。 「〈征〉を捨ててまいったそなたに、まさか里心がついたとは思わぬが。われらが〈征〉と手を結ばねばならぬ理由を、わかるように説明してみよ」 「——魚支吾に、恩を売っておく絶好の機会かと思います」  表情の少ない顔は、動揺の色もない。ただ、声とまなざしに、見るものが見ればわかるゆらぎがあった。 「この際、少しでも多く魚支吾に恩を着せるのです。その分、〈征〉が〈琅〉に遠慮をいささかでもしてくれれば、しめたもの。その間に、〈琅〉をより強くするしか、〈征〉に抗する方法はありますまい」 「魚支吾が、遠慮をするかの」 「〈征〉にいるのは、魚支吾だけではありません」 「ふむ」 「最終的には魚支吾の意志が通るにしても、家臣たちの間に論争を起こすぐらいの工作は、われらでもできましょう」 「それで、時間をかせぐか」 「〈征〉はいま、われらに〈衛〉の後背《こうはい》を衝《つ》いてほしい。ならば、期待に応えてやればよろしい。ただし、〈衛〉に勝つほどの力はわれらにはないし、たとえあったとしても徹底的にやる必要はない。すこし騒がしくして牽制《けんせい》してやるだけで、義理は果たせましょうし、〈衛〉に倒れてもらっては困る。なるべく〈衛〉と〈征〉がいがみあい、国力をすり減らしてくれるのが理想ですが——ま、そこまで都合よく、事は運ばぬとは思いますが」 「なかなか、どうして。そなたも策士だの、廉亜武」  羊角が、苦笑しながら如白を見た。 「如何、思われる、主公《との》」 「もっともな意見ではあるが、しかし」 「なにがご不満でございまするか」 「まず、第一に、同じ盟約を結ぶのなら、何故、相手が〈衛〉ではならぬ」  廉亜武は、用意していたようにすらすらと応じた。 「〈衛〉には、われらと手を結ぶ気がありません。さらに、〈征〉との戦にわれらが助力するとなれば、遠距離を移動したあげく、慣れぬ土地で戦わねばなりません。〈征〉と戦って国力が落ちたところで、〈衛〉に裏切られでもしたら、持ちこたえられません」 「では、もうひとつ。これは、そなた自身が申したことだ、亜武。どうやって、〈琅〉を強くする」 〈征〉も〈衛〉も、おたがいに勝つために、兵を強くする工夫、努力を重ねているはずだ。細かなところでは武器を改良し、大局を見ては軍の編成を変えたり、人材の登用をはかったりしている。  もともと人口も多く、〈琅〉に比べれば土地も豊かな両国では、兵の数を増やすのも〈琅〉よりずっと容易だ。しかも先日、内乱をおさめたばかりの〈琅〉は、さらに立場が不利となっている。  だが、廉亜武は、 「その解答のひとつは、すでに出ていると」  低い声で応えると、視線だけで羅旋を指した。だれの目にも、その意味は見てとれたようだ。 「馬か——」  戎族の容貌をひらめかせて、方子蘇がうなずく。たしかに、羅旋の率いる騎馬の一隊の強さは、ここ半年の間に証明されている。 「しかし——。小競り合いと、一国をあげての大戦とでは話が違うじゃろう。一万、二万の軍を、百騎たらずの馬で蹴散らせるとは、まさかおぬしでも考えてはおらぬじゃろうの、赫羅旋」  羊角が、また、異議を唱えた。 「なるほど、馬は戦車より早いし、小回りもきくわい。だが、たった百騎や二百騎で覆せるほど、国の命運とはたやすくないはずぞ。増やすにしても、馬に乗れる者は多くない。だいたい、馬の数をどうやって増やす」 「——ご老人」  熱を持ってくる羊角老人の口調の合いの手に、羅旋の手がひらひらと振られた。それ以上、いうなと、手がいっていた。 「いわれるまでもない」 「ほう、わかっておるのか、そなた」  羊角老人は、さも驚いたような大声をあげた。わざとやっているのは丸わかりだが、悪気のないのもわかるから、羅旋は苦笑で聞き流した。 「馬の数だけじゃない。他にも、ご老人がまだご存知ない問題はある。ありすぎて、どうしようかと思っているぐらいだ。だが、馬は〈琅〉が生き残る、ひとつの手がかりにはなると思っている」 「生き残る、とな。羅旋」 「武力で勝つ必要はない。最後に生き残った者が、勝ちだ、国も人も。俺はそう思っている」 「国も、人も、か」  羊角が、つぶやいた。方子蘇が、同じ言葉を口の中で反芻《はんすう》した。 「だから、生き残る努力と工夫はする」 「それができなんだら?」 「滅びるだけだ」 「こやつ——あっさりと言ってくれおるわい」  白髯をゆらして、羊角が含み笑いをもらす。 「滅びるのも楽ではないぞ、羅旋。むろん、死ぬのもな。儂など、この年齢《とし》になって適当な死にざまがないばかりに、ふらふらと生きておるのじゃからの」  また、白い歯を見せて、呵々《かか》と笑った。 「そもそも、そなたら若い者はの——」 「羊角、そのあたりにしておけ」  説教になりかかるのを、如白があわてて止めた。 「羅旋は、外から帰ってきたばかりだ。配下の面倒だの、他にもやらねばならぬこともあるだろう。この件は、ここまでにしよう」  といっても、これで藺璞の処遇や〈征〉との盟約の件に決定がくだったわけではない。これからまだ、十人以上の人間を集めての論議を経《へ》て、やっと決まる。この場で決定したことは、たとえその意思に反したとしても、〈琅〉公は従わなければならない。中原にはない合議制の風習も、戎族の習慣を取り入れたものといわれていた。  如白は、むろん、この習慣を変える気はない。むしろ、合議に加わる人数を増やし、より多くの意見を反映させようと思っているようだ。ただ、合議にかける前に、いわば側近を集めて意見を述べさせるのは、前もっておのれの意思を明確にしておくためだ。問題にどう対処すればよいのか——かならずしも、こうと答えを出す必要はない。ただ、どんな見方があるかを知っておく必要はある。それには、君主に対しても遠慮ない口をきく者らが、どうしても必要となる。  羊角や羅旋は、おのれの保身のために口を閉ざしたり、阿諛《あゆ》をいう心配の絶対ない人間として、藺如白の信頼を得ていた。そして、彼ら自身、その役割をしっかりと自覚していた。 「早く帰って、休め。羊角も、皆もだぞ」  如白がまず、座を立って奥へ入っていくのを、だれもがじっと静かな視線で見送っていた。      (三)  傾いた日が、横顔に強くあたっていた。馬を並べて進めながら、羅旋と廉亜武はひとことも口をきこうとはしなかった。廉亜武はもともと無口な方であるし、羅旋もそれを知っていて無理に口を開かせるようなことはしない。  城邑の中は、夜間は外出禁止となる。まだ、周囲に明るさは残っているが、人の影はもうまばらで、風がやたらに黄色い砂をまきあげていた。  とある館の門の前で、突然、亜武の馬が脚を止めた。 「——では」  馬の上で、それだけ言葉をもらして、廉亜武は軽く会釈した。馬の背をすべりおりる姿も中肉中背で、うしろを向いてしまうともう、その顔も思いだせなくなるほどの凡庸さである。そのかわり——というわけでもないだろうが、門の中から出迎えに出てきた女に、羅旋の視線は吸いよせられた。  背の高い、顔の彫りの深い婦人である。戎族の血をひく者はめずらしくない〈琅〉だが、純粋の戎族となると案外に少ない。婦人は中原風のゆったりとした衣服をまとっていたし、髪も目も黒かったが、その大きな瞳の白い部分に青みがかかり、まなざしに深みが生じていた。あきらかに、羅旋とおなじ戎族の女である。そもそも、中原の婦人で多少身分のある者なら皆、こうして人目にたつ場所に姿をあらわしたりはしない。  年齢は、壮年の亜武に似合いのころだが、若いころは花のように美しかっただろうと思わせるものが、そのまなざしのあたりに残っていた。  婦人はまず亜武に一礼し、馬上の羅旋を見上げて、目礼した。  その間、すべて無言。  羅旋も無言で礼を返し、すぐに馬をうながした。  ふりむかなかったのは、亜武も婦人も、すぐに館内にはいってしまったと知っているからだ。  この亜武の夫人とは、羅旋も何度が面識があった。名を香君《こうくん》ということも、知っていた。戎族の名ではないが、発音のできない亜武が同じ意味の名で呼んでいるのだと聞いたこともある。  ——廉亜武は、もともと、〈征〉の卿大夫《けいたいふ》だった。とはいっても、朝議《ちょうぎ》の席の末にやっと出られる程度の家柄で、〈征〉でも影が薄かったという。  少年の頃、魚支吾と同じ師について学問をしたという経歴をもっていたが、それとてむこうは国主の子という掛け値ぬきで、らくらくと首座《しゅざ》を占めていたのに対して、亜武は平均以上でも以下でもなかった。容姿もまた、以上でも以下でもない彼のことを、おそらく魚支吾は、記憶にもとどめているまい。  ただ、平凡でも廉亜武は廉氏の嫡子《ちゃくし》だった。成人し、父親の死とともに家と封地を継いだ亜武だったが——それを突然捨てて、〈琅〉へ移り住んだのは、彼が三十歳の時のことである。  亡命したのである。  しかも、ひとりではなかった。その時、ともなっていたのが、香君という、現在の夫人なのである。  香君は少女のころに捕らえられ、婢《はしため》として〈征〉に送られた戎族だった。その容姿がさいわいして、あまりむごい目にはあわなかったらしいが、それでも意に染まないことは多かったろう。  他人の事情に深く立ち入る趣味はないから、羅旋はくわしい経緯を知らない。  とにかく、香君を婢の境遇から救い出し妻にするために、廉亜武は自分の家と一族と国を捨てたのだという。  あの世間並みを形にしたような姿や挙措《きょそ》からは想像もつかないような、思考と行動力と情熱を、廉亜武は秘めていたらしい。そして、それがひそかに人材を集めていた藺如白の目にとまったのである。  如白に仕えるようになってからも、亜武の平々凡々ぶりは変わらない。だが、その淡々とした生き方を、如白はむしろ貴重なものとしているようだった。  羅旋がひとりで馬の首を向けたのは、安邑の西の城門の外、城壁に隣接する一角だった。  これまで、羅旋はこれと決まったねぐらを持ったことがなかった。  父親の赫延射《かくえんや》が存命中は、〈魁〉の義京《ぎきょう》に屋敷があったが、早くにそこを飛び出して以来、ひとところにしばらく滞在することはあっても、腰を据えてしまうことはなかった。一番長く滞在したのは、おそらく義京の大商人・尤家《ゆうけ》の屋敷だが、それも合計すればの話である。しかも、その滞在中にも彼は、城内のあやしげな場所にいりびたっていたのだ。安邑のこの城外が、羅旋の構えた最初の家だった。  ただし、家といってもその敷地の大半は、だだっ広いただの草地である。人口の少ない安邑には、城内にもこうした広い空き地がいくつもある。外となれば、視界を邪魔するものさえないありさまである。  陽あたりのよいその草地の端には、厩《うまや》がずらりと並んでいて、人の住む場所は裏手となっている。その建物もひどく粗雑な造りで、これでは厩の方がましだとようすを見にきた如白が苦笑したぐらいだ。これでも今はましになった方で、最初、羅旋たちは敷地内に天幕《てんまく》を張って寝起きしていた。なんのことはない、戦場の野営地とかわりない。  ちなみに、茣原にも羅旋はこういった場所を設けて、人と馬を集めている。こちらは最初から現在にいたるまで、天幕暮らしで通している。  きちんとした屋敷を建てるように勧める者も多いし、仮にも〈琅〉公の義子ならば、公の住まいたる内城の中に住んでもかまわないのではないかという意見もある。せめて、城内に居をかまえるべきだともいわれている。義子が、義父の親衛兵《しんえいへい》の役目を果たすことも考えれば、これは僭越《せんえつ》とはいえないはずだったが、羅旋は拒絶し続けている。 「俺ひとりがぬくぬくとしたところで寝起きをして、連中がついてくるものか」  連中とは、むろん、配下の騎馬兵のことである。半年前のあざやかな勝ち方を見て、羅旋の下に集まってくる若者が増えた。現在、茣原と安邑と双方あわせて、五百人に満たないほどか。ただし、物の役に立つのは、今のところ、その半数ほどだ。  やはり、土地を逃散《ちょうさん》してきた農民や、無頼《ぶらい》が多い。中には、如白から預かった〈琅〉の士大夫の子弟たちも、少数だがいる。年齢も出自もまちまちな、いろいろな意味でひとすじ縄では扱えない男たちを、役にたつように訓練しなければならないのだ。それなりに、不満や要求も出てくるのを、上から押さえつけたり、睥睨《へいげい》するような態度に出れば、たちまちこの集団は崩壊する。  それでなくとも、この集団はふつうの軍役とは異なっており、やることさえ果たせば、あとはひとりひとりの勝手に任されていた。  早い話が、毎朝行われる点呼と訓練にきちんと顔を出しさえすればいい。それさえ可能ならば、城内に住もうが誰と暮らそうが、干渉する者はいない。  ただし、訓練はきつい。しかも、逃亡は厳禁。  他に、あまり細かな規則はないが、〈琅〉の国法に照らして罪となるような行為は、法によってではなく、羅旋と、この一団の中から互選で選ばれた者たちの合議で制裁が決定されることとなっていた。 「あまり、小むずかしいことを決めても、理解できんだろうし、細かなことまで定めて縛りたくはない」  如白に、そんなに寛容なことで問題は起きないのかと訊かれた時、羅旋はそう答えたというが、実は、あとで五叟老人に、 「俺自身が酒の一杯も飲みにいけないようになっちゃ、たまったもんじゃない」  と、ぼやいたそうだ。これが、どうやら本音のようである。また、こうもいったそうである。 「戦でおのれの命を守るのは、おのれ自身しかない。どうせ、逃亡しようにも、これ以上帰るところのない連中が大半だ。おのれが強くなり、しかも俺の下知《げち》に従えば生き残れるとわかれば、逃げる者もなくなる。訓練にも身をいれる。問題は、どうやって死なさない工夫を俺がするかだな」 「おまえさんにしては、殊勝なこころがけではないか。夏に雪でも降るのではないか」 「もっと西の方では、夏でも雹《あられ》ぐらいは降るぞ」 [#挿絵(img/04_051.png)入る]  五叟にまぜかえされて、そう応酬した羅旋だが、 「どうもなあ。俺ひとりのことなら、いやになればいつでも逃げ出してやるが、ああ、頼ってくる連中がいてはなあ。無責任に行方をくらますわけにはいかんし、頼られた以上はひとりでも死なせたくないし、なあ」 「たいへんじゃの」 「ああ、正直いうと、少々、後悔している」  これは本気か韜晦《とうかい》か、五叟老人にも判別はつけがたかったようだ。  ともあれ、羅旋がその安邑の西の館に帰るべく城門をくぐったのは、ちょうど日が沈もうというころだった。 「お帰りで」  ひと足先に帰してあった徐《じょ》夫余の長身が、西の城門の前でほっと、安堵の息を吐いた。 「なんだ、大仰な」 「いえ、日没までにお戻りにならないかと思って、心配していました」  もとは〈奎《けい》〉伯国の農民で、軍役に駆り出されていた時に、ひょんなことから羅旋と関わりあった若者である。〈奎〉は滅んだとはいえ、一兵卒の身分ならとがめられることもなく、それなりに平和な暮らしにもどっていけるはずだった。それが、〈魁〉の滅亡——義京の乱に巻きこまれ、羅旋たちとともに〈琅〉までついてきた。  彼にはまだ〈奎〉に戻る道もあったし、本来の領主たる段大牙《だんたいが》にしたがって〈容《よう》〉へ去るという途《みち》もないではなかった。それが、だれも頼みも強制もしないのに、羅旋のそばに残り、いつのまにか彼の補佐役のような立場を占めている。人あたりのよい純朴な性格のせいか、集まってきた無頼たちの中でも評判がよい。年少者は無条件にたよりにするし、扱いにくい年配の者からは、息子か弟のように思われているらしい。その真面目な顔を見ると、五叟老人まで真剣になると評判の若者が、全身で心配を表現してみせたのに対して、羅旋は苦笑した。  たしかに城内の夜歩きは厳禁だが、羅旋には適用されないという事情がある。夜だからといって、国主の館に異変が起きない保証はないし、羅旋たちの一軍は夜、行動を起こす可能性もある。夜歩きをとがめられる心配なら無用のはずで、それは徐夫余も知っているはずだった。  また、羅旋の危険を案じていたとしたら、なお無駄だ。月のない真の暗闇でも、羅旋の夜光眼は、昼間と同様、見えているのだ。だから、 「無駄な心配をするぐらいなら、馬の世話でもしてろ」 「いえ、そんなことじゃないんです。五叟先生が——」 「ああ、こちらで会うとことづけたから、来ているのがあたりまえだ」 「そうじゃありません。五叟先生がお連れになった客というのが、問題なんです」 「客? そういえば」  ここまで乗ってかえってきた馬の手綱を、夫余に放り投げ、 「俺の部屋か」 「はい」  後も見ず、広い歩幅で向かったのは、彼らしくもない胸さわぎがしたからだ。 「おまえか——」  扉を開けて、羅旋は憮然《ぶぜん》となった。 「一別以来で」  真正面で笑っている顔に、たしかに見おぼえがあった。  あるどころではない、一度見たら忘れようもない顔だ。顔全体が角ばって、できそこないの磚《かわら》のように見える上、色黒なところまで磚に似ている。笑顔に愛嬌がないでもないが、この男の正体を知っている羅旋には、少々、うさん臭く感じられないでもなかった。 「——野狗《やく》」 「よかった。覚えていてくださったかい。すっぱり忘れられていたら、どうしようかと思った」 「忘れるものか。ついでに、おまえがここ数年、尤家《ゆうけ》に雇われていることも知ってるぞ」 「おや、お聞きおよびで」 「気をつけろよ。おまえが思うほど、ここは田舎じゃない。特に、そこのじいさんは早耳だからな」  正面の筵《えん》に脚を組んで座りながら、羅旋はかたわらの老人をあごで示した。老人はそ知らぬ顔で、 「ま、ま、よいではないか。旧知の人間が、わざわざ、こうして尋ねてきてくれたのじゃ。どうじゃ、酒でもださぬか」 「旧知の夜盗《やとう》に、か?」 「羅旋の旦那ぁ。そりゃあ、ないでしょうが」  大げさに、野狗は悲鳴をあげた。 「おいら、たしかに夜盗も商売にしてましたがね。それで、旦那のお役にたってあげたことだってあったでしょうが。だいたい、義京の場末の博打小屋に出入りしてた旦那は、そんなけちな根性じゃなかったはずだ。みそこなってしまいますぜ」 「夜盗が悪いといったんじゃない」  憮然、の表情をくずしもせずに、羅旋はぼそりと応じる。 「おまえが尤家の手先になってることが、知れわたってるってことがまずいといってる。おまえの顔を知っている者が少ないからいいようなものの——尤家が〈衛〉の無影の王宮の内部まで、食い入ってることぐらい、すこし気がきいた者なら、誰だって知っている。それが、こともあろうに〈琅〉の国主の館にまでのこのこと——」 「旦那。羅旋の旦那が、気をとがらせてなさるのは、〈琅〉が〈衛〉ではなく〈征〉と手を結ぶおつもりだからですかい?」  このせりふで顔色を変えなかったのは、相手が羅旋だったからこそだ。たった今の、如白の前での合議の結果を知っている者なら、青くなるか赤くなるか、とにかく動揺を見せたにちがいない。五叟老人でも、しら[#「しら」に傍点]をきりとおすことはむずかしかっただろう。 「——おれに、かま[#「かま」に傍点]をかける気で来たのなら、今すぐ、たたきだすぞ」  すくなくとも、羅旋の口調からは彼の真意はうかがえなかった。一方、凄《すご》まれた野狗の方もたいしたもので、ひるむふりもしない。 「かま[#「かま」に傍点]だなんて、とんでもない。だいいち、そんな必要はないですもの」 「なに?」 「おいら、おっしゃるとおり、たしかに尤夫人のお指図で来やした。その尤夫人がおっしゃったんでさ。〈琅〉は〈征〉と手を結ぶにちがいないとね」 「——暁華《ぎょうか》が、そういったのか?」  かつて義京の商人の中でも、十指に数えられた尤家の主は、妙齢の婦人、しかも、羅旋とは昔なじみの女性である。気性が男まさりなら、その頭脳も男以上、しかも美貌の持ち主という——羅旋にいわせれば手に負えない女なのだ。義京の乱で尤家の屋敷は全焼したが、以後、本拠を〈衛〉に移して、以前以上に繁盛しているのは、ひとえに尤暁華の手腕によるものだ。  彼女は、以前、〈魁〉の王家と密接な関わりを持っていた。移転の後は、今度は〈衛〉で王を称する耿無影を相手に、大がかりな商売をやっている。商品を提供する一方で、各国を往来する商人たちから集めた情報をも売っているのだ。  羅旋も半年前、〈衛〉の国都、瀘丘《ろきゅう》で彼女と再会しているし、その「商売」の内容は以前から熟知していたが、暁華がそこまで冷静に情勢を見きっているという事実に、慄然《りつぜん》としたのである。だから、野狗がこう訂正した時はむしろ、ほっとしたものだ。 「いや、〈衛〉王陛下のおことばだそうで」 「耿無影のか」  最後の〈魁〉の王、衷王が薨《こう》じたあと、まっさきに王を自称したのは、〈征〉の魚支吾と〈衛〉の耿無影。ちなみに、ふたりのあとに数人が続いたが、いずれも小国で、〈征〉か〈衛〉に従属しなければ国がたちゆかず、名目のみの呼称にとどまっている。 「それなら、話がわかる」 「どうしてじゃ?」  と、五叟老人が羅旋に、不思議そうに尋ねた。 「館に詰めておる儂ですら、そんなことは初耳じゃったぞ。それが、遠いところにいる無影めに、何日も前にわかる」 「——おおかた、予測していたんだろうよ。庇護を求めて逃げてきた璞を、追い払ったのは、このあと〈征〉が〈琅〉と手を結ぶ材料に使うだろうと、わかっていたからだ」  軽い舌打ちとともに、それでも羅旋は説明してやる。 「腹背《ふくはい》に敵を受けるのにか」 「〈琅〉を、敵にして恐い相手だとは思ってないんだろう。実際、今のところはそのとおりだ」 「しかし、敵にまわすよりは、味方につけた方がいいにきまっておるだろうが」 「足手まといな味方もいるさ」 「ふむ——」  五叟は、目を光らせていったん口をつぐんだが、 「何か、考えておるな。あの漢」 「何か、とは?」 「〈琅〉の——いや、おぬしの足を止める方法をじゃよ」  いうと、野狗の方に身体ごとむきなおり、ぴたりと指をさした。 「とすると、こやつはその手だてをさぐりに来たということになる」 「今ごろ、そんなことに気がついたのか。こいつを館にまでひき入れたのは、じいさん、おまえだろうが」 「ほい、そうじゃった。では、儂が責任をとって——」 「ま、待った、待った、先生。そりゃ、あんまりだ。最後までおいらの話を聞いてからにしてくださいや」  懸命に制止する野狗に、五叟はいったん振り上げた腕をおろした。 「儂はまだ、何もしておらんぞ」 「でも、何かするんでしょうが。先生が雷を操ることも、毒に詳しいことも、ちゃんと存じあげてますぜ。でも、おいら、まだ先生に殺されるほど悪いことをした覚えはありませんぜ」 「先生に殺されるほど、というのは、なんじゃ」 「だったら、先生に殺されるより羅旋の旦那にひと思いに殺してもらった方がいい、とでもいいましょうか。とにかく、ちょいと待ってくださいや。おいら、無影の命令できたんじゃない、尤夫人のご指示で来たんですぜ」 「同じことじゃろう」 「尤夫人は、羅旋の旦那の知りたいことがあったら、なんでも教えるように。必要なものがあったら、届けさせるからと」 「あの女——」  羅旋がまた、舌打ちをした。 「なにを、怒ることがある。ありがたい申し出ではないか」  てのひらを返したような上機嫌で、五叟がまた口をはさむ。 「女の深情けかの」 「莫迦もやすみやすみいえ。うかつに、その話にのってみろ。後でとんでもない代償を払わされるぞ」 「尤夫人は、無償でよいと仰せでしたよ」 「それが、いちばん恐い」  羅旋は、がっしりとした首をすくめてみせたが、すぐに真面目な表情になって、 「こちらの必要な物を教えるということは、何をするつもりか、教えるようなものだ。接触があれば、知らないうちにこちらの手の内を見せることになる。悪いが、野狗——その話はうけられん。暁華にはそう伝えてくれ。今後、いっさい、関わりはなしにすると」 「いいんですかい?」 「中原と交易をせずにやっていけるほど、〈琅〉は豊かじゃないからな。尤家が〈琅〉で商売をする分には、なにもいわん。野狗、おまえやおまえの仲間が、〈琅〉の内部を嗅《か》ぎまわるのも——他の人間につかまらんかぎりは、勝手にするがいい。だが、俺と直接、交渉するのは、今後はいっさいなしにしてくれ」 「——がっかりなさいますぜ。耳よりな話があったのに。これを聞けば、旦那はぜったい喜んでくれるって、おっしゃってたのに」 「だから、悪いが、といっている」 「さっきから思ってるんですが、羅旋の旦那も頭が堅くなりましたね。いっちゃ悪いが、小心におなりなすった」 「なんとでもいえ」  羅旋は、微苦笑をかえしたのみだ。 「——尤夫人にも、そうご報告してよろしいんで?」 「ああ——。ひとつだけ」 「何です?」 「暁華が——尤家が本拠を〈琅〉に移すなら、また、話は別だが、と。それだけ伝えてくれ」 「そりゃ、まあ——。無理な相談だとは思いますがね」 〈琅〉は、産物が少ないだけではない。中原の端に位置しており、交通も不便だ。商売には向かない。 「俺もそう思う。ただ、いったまま、見たままを報告してくれればいい」 「そうしましょう。五叟先生が〈琅〉にいついたことも、旦那のその口のお髭のことも、それからお館の、きれいになられた公主さまのこともね」 「こいつ」 「最後の件だけは、お喜びでしょうよ。玉公主さまのことを、案じておいででしたからねえ」  そのせりふが、羅旋たちの耳に届いた時には、野狗の角ばった顔はもう、どこにも見えなくなっている。部屋の隅にしのびよってきた闇に、人の影がまぎれたかと思うと、もうかき消えていた。 「——失せたか」 「やれ、まったく油断のならぬ奴じゃわい」  じっと、息をこらして気配をうかがっていた二人が、低い声でそんな会話をかわしたのは、それからしばらく後のことである。 「まったく、どこで吹きこまれてくるのか知らぬが、とんでもない物識りになりやがったぜ」 「もともと、頭のよい男ではあったよ。学がないだけでの。それも、士大夫どもの学問だけが、学ではないことぐらい、おぬしでも知っていように」 「わかっている。——どの程度、知られたかな」 「ふむ。まあ、儂らが期待した程度には、さぐっていったのではないか。ちゃんと目も耳も働かせておったようじゃでな」 「——〈琅〉は〈征〉と結ぶ。〈衛〉は——大牙《たいが》と結ぶか」 「〈容〉とか?」 「いや、段大牙とだ。大牙と——その下にいるはずの、耿淑夜《こうしゅくや》と、な」 〈衛〉が、璞を保護せず捕らえず、殺しもせずにただ追い出したと聞いた時に、すでに羅旋にはその筋書きは読めていた。  ただ、〈琅〉を見下して無視する気なら、璞を保護するはずだった。役立てることはできなくとも、保護という名目で幽閉しておくだけでいい。いずれ〈琅〉の非道を告発し、藺如白の公位の不当性をいいたてる、絶好の口実となる。また、〈琅〉と結ぶ気なら、捕らえるか殺すか、〈琅〉の——如白の不利に将来、ならないような処置をとるはずだ。  それを、どちらもせず、わざわざ〈征〉に選択権を譲るような真似をしたのは——。 「別に、手を結ぶ相手がいるからだ」  羅旋はそう、判断した。  それ以前に、現在、茣原で一隊を任されている、羅旋の謀士ともいうべき壮棄才《そうきさい》が長い密書をよこして、その指摘をしていたからだ。 『段公子が〈容〉の執政の座に就《つ》いた由《よし》、お聞きおよびかと。おそらく、背後には〈衛〉の工作有り』  これが、他の人間の指摘なら、なにを莫迦《ばか》なと一蹴したかもしれない。  段大牙が今年の春、国主の交替した〈容〉国の執政となったことは、耳にしている。ちょうど、羅旋自身も〈琅〉国内の騒動にどっぷりと首まで関わっていたころで、情報が後手《ごて》にまわった。詳しい経緯は、今もってはっきりとは伝えられていない。おそらく、尤家の暁華なら、手にとるように知っているのだろうし、さっきも野狗に要求すれば教えてくれたかもしれない。だが、今の羅旋の立場では、尤家がさしだした餌に、無条件にとびついてみせるわけにはいかなかったのだ。  ともあれ——段大牙の下に、まだ耿淑夜がとどまっていることは、その一件で確認がとれた。無影に一族をすべて殺され、一度はその身にあとわずかというところまで迫った刺客の、淑夜が。淑夜が無影への恨みを忘れることはなく、無影がおのれの頬に傷を残した堂弟《どうてい》を許すことも有り得ない。同じ一族、同じ不遇の身同士だっただけに、彼らの憎悪は深いものがある——。  先年、直接に無影の顔をたしかめ、頬の傷を見て、羅旋はそう感じた。ただ、その時に思いもしたのだ。無影はまだ、あきらめていない——と。  耿淑夜を膝下《しっか》に置き、おのれの覇業《はぎょう》に役立てることを。  淑夜の才能を、それなりに高くかっていることもその理由だろう。両者の確執《かくしつ》を知る者にとって、それは無影の勝利とも映るだろうし、それほどの相手を屈服させることはそのまま、無影の器量の大きさをしろ示すことにもなる。そして——。 (あの漢は、理解者を得ることになる)  無影の行動の意味を理解した上で、後世に伝えてくれる者を。 (だが——)  果たして、そうなるだろうかと、羅旋は思っている。無影の方では淑夜に未練があっても、淑夜の方はどうだろう。 〈衛〉よりも広い世界を見、人と出会い裏切られ、〈魁〉の滅亡に立ち会い、文字通り生死の境を越えてきた淑夜に、体験の点で無影は及ばない。  耿無影は文の人間にもかかわらず戦の前線にまで姿を見せ、怯懦《きょうだ》という言葉とは無縁なところを示しているが、最初から数の上で相手を上まわっているのが常だ。勇気がないとはいわない。だが、他者を見る目、世界を見る視点が、単身で、常に不利な戦いを生き抜いていった淑夜とは、遠くへだたっているはずだ。いや、——そうなっていなくては、 「大牙に預けた甲斐がない」  口の中で、羅旋はちいさくつぶやいた。 「何? なんというた?」  五叟が、わざとらしく耳をつきだしてきた。 「灯をつけろといった」  羅旋は、さらりと嘘をついた。たしかに部屋は、全体が闇の中に沈もうとしていたが、五叟はけげんな表情をして、 「おぬし、目でも悪うなったか。灯は無用なはずではなかったか」 「なにを莫迦なことをいっている。他の奴に必要なんだ」 「儂なら、不要じゃわい」 「だれが、おまえの心配などするか。例の連中を呼べといってるんだ。館の内にいる者だけでいい、例の件、そろそろ本気で相談する時期がきたようだ。点《とも》せ」  部屋の隅から、なにやらごそごそとひっぱり出してくる。羅旋の命令に応じて、ぱっと室内に光が点った。  ふわりと、板敷きの床に広がったもの——一枚の麻布には、いくつもの図形と矢印が描かれていた。一見、ただの紋様のように見えるそれを、羅旋と五叟は、まるで玉石かなにかのような慎重さでのぞきこんだのだった。 [#改ページ]  第二章————————交錯      (一)  剣風は烈《はげ》しかったが、よけられないほどの速度ではなかった。  ふりおろされてきた剣を余裕を持って避けると、淑夜《しゅくや》は白木の杖を地面すれすれのところで、水平に大きくふりまわした。  相手は、それが足首に触れる寸前、軽く飛び越えて、さらに淑夜にむかって剣をふるう。激しく動く淑夜の片膝の下で、黄塵《こうじん》がもうもうと湧きあがり、突風にあおられて舞いあがった。 「音《ね》をあげるなら、今のうちだぞ」 「まだ、です」  淑夜はさっきから、左膝を地面についたままの姿勢である。膝には革を巻きつけて細身の袴《はかま》を保護しているが、痛みまでは防ぎようがない。だが、ろくに動かない左脚で立っても、激しい動きにはついていけない。すぐに倒れて、ぶざまに隙をみせるだけだ。  淑夜が、たとえ擬闘で手加減はされているとはいえ、こんな立ち回りの場でなんとか格好を保つためには、最初から片膝をつき、片膝を立てた形で応じるしかなかった。 「まあ、戦《いくさ》の場で、そんな構えが通用するかどうかは、かなり疑問だがな」  相手をしてくれている冀小狛《きしょうはく》は、最初、鼻を鳴らして不満気に告げたものだ。 「だいいち、移動できないのでは戦場で味方に置いていかれるのは、目に見えている。足手まといにならないためだというが、そもそもやるだけ無駄な稽古だぞ」  暗に戦場までついてくるなといわれても、淑夜はおいそれとあきらめなかった。苦情をいわれるのは、予測している。左脚がどうのという問題ではなく、文弱《ぶんじゃく》の徒が軍事に口を出すなという牽制なのである。こんなことでひっこんでいては、これから先、何もできない。  さいわい、大牙《たいが》が横から口をはさんでくれた。 「役には立たぬかもしれんが、おのれの身を守る術は必要だろう。味方が拾いにとってかえすまで、生き長らえていればよいのだから」 「とってかえす物好きがいれば、の話ですな」 「すくなくとも、俺がもどるさ」  それで、しぶしぶながらも冀小狛はひきうけてくれた。彼としても、直属の配下としてあずけられた淑夜を、むざむざと死なせては体面に関わることになったからである。  ——春、段《だん》大牙は、〈容〉伯国の執政という立場を手に入れた。〈容〉伯・夏子明《かしめい》が、〈貂《ちょう》〉〈乾《けん》〉といった、〈魁〉と血縁でつながる国々の覇権を手に入れようと焦るところをみすまして、罠をしかけた結果だった。  大牙自身、かなり危ない綱渡りも演じたのだが、ともあれ、北方でもっとも国力のある〈容〉には幼い国主——当年十一歳の夏弼《かひつ》が立ち、〈貂〉伯らとの合議によって、その補佐役に遠い血縁にあたる大牙が任じられたのである。  本来、彼は〈奎《けい》〉伯を継ぐべき人間だったが、〈奎〉国は〈魁〉と命運をともにして、今は無い。〈容〉国に、家臣たちをつれて寄人《かかりうど》の身となっていた彼がいきなり〈容〉の経営をまかされたのは、ひとつには、彼が軍事面ですぐれた手腕を持っていたからである。また、他に〈容〉国内に適当な人物——〈容〉の突出を押さえてくれる人物がみあたらなかったこともある。〈乾〉や〈貂〉にとっては、〈容〉一国が勢力を伸ばし〈魁〉再建の名目を独占して、自分たちがその下風に立たなければならないのは、なにより避けたい事態だったのだ。 〈容〉にとって他処《よそ》者の段大牙を権力の座に据えておくことで、大牙と〈容〉国の譜代《ふだい》の家臣たちとを噛み合わせ、不安定な状態に置くことができるとも思ったのだろう。すくなくとも、それが第一の理由ではなくとも、理由のひとつではあったはずだ。  段大牙という漢《おとこ》は戦場では勇猛でも、| 政 《まつりごと》となるとかならずしも得手《えて》とはいいがたいはずだったから、早晩、〈容〉の卿大夫と摩擦をおこしてくれる予定だった。  だが、大牙はその思惑を裏切ってみせた。大牙は〈容〉国全体の政をとりしきろうとは、最初からしなかったのだ。  むろん、十一歳の少年に任せきることはどだい不可能だったが、家宰《かさい》をつとめていた夏子華《かしか》という男が、夏氏の一族の有力者を集め、その連中を指揮して処理にあたっている。大牙も一応その報告は目にするが、子華をおおむね信頼してゆだねきってしまったのである。  かわりに、大牙は軍事を一手にひきうけた。もともと武人として知られ、それをかわれて〈征〉との国境に配備されていた彼である。軍にしか関心が向かないのを、むしろ〈容〉伯の一族も歓迎した。  大牙はまず、〈征〉との国境の警備を強化する一方で、軍を大幅に編成しなおした。むろん、〈奎〉以来の自分の麾下《きか》もその組織の中に組みこんだのだが、〈容〉の人間に配慮したのか、あらたに将軍位に就《つ》けたのは冀小狛ただひとり。後は裨将《はいしょう》(副将)か校尉《こうい》の位に皆、留めて、降格《こうかく》、罷免《ひめん》を心配していた〈容〉の武人たちを安堵させた。武人たちのほとんどは〈容〉国主の一族だったから、この処置で執政としての大牙への反感が、相当に薄らいだ。政を夏子華に任せていることも、安堵感につながったようだ。また、大牙の姪・苳児《とうじ》がいずれ、成人のあかつきには夏弼の妻になると決まっていれば、自然、庶民の風評も落ち着いてくる。  今のところ、大牙は〈容〉の客人という微妙な立場ではあっても、好意的な迎えられ方をしていた。  そしてこの間に、一連の行動を助言、示唆《しさ》した耿淑夜は、冀小狛将軍直属の腹心《ふくしん》(参謀長)となっていたのである。 「俺の直属でいてはくれんのか」  最初、淑夜からそれを申しでられて、大牙は難色を示した。当然である。政務は夏子華が処理してくれるとしても、報告を受けそれが正しいかどうか判断をするのは、大牙の得手ではない。軍事面だけを掌握することにしたのも、政務は淑夜に目を光らせる心づもりがあったからだ。だが、 「私が、〈容〉の政に嘴《くちばし》を入れていると公になったら、たちまち反感をかいます。〈容〉の人間にだけではありません、〈奎〉以来のお歴々にもです」  なにしろ、つい先日までは苳児の傅役《もりやく》を押しつけられていた、厄介者なのである。大牙を執政の位につけた、陰の功労者であることは皆、暗黙裡に承知していても、やはり淑夜はまぎれこんできた異物である。 「しかも、私が耿無影の縁者であることは、もう、だれでも知っていることですし。いくら端役でも大牙さまの直属では、嫉妬も猜疑《さいぎ》心も生まれます。表向きだけでも」  離れた方がいい、と主張した。  冀小狛を選んだのは、この壮年の武人が多少、粗暴な面はあるものの、陰湿なところのない性格であったからだ。 「つまり、淑夜どのの身柄を預かったふりをしろ、というわけですな」  見込まれたからといって、手ばなしで喜んでみせるような漢ではない。おもしろくないのは、表向きはおのれの部下でも、結局、大牙は淑夜に、頭ごしに機密の相談をもちかけるのだろうとわかっているからだ。それと察して、淑夜が引換えの条件を出した。 「大牙さまから何かご下問《かもん》ある時には、冀将軍にもかならず、同席していただきます」 「そんなことをしても、無駄だ。儂《わし》はむずかしいことはわからぬし、何の役にもたてん」 「いえ、居ていただくだけでいいのです。いうなれば、生き証人になっていただきたいのです」 「となると、おまえがうしろ暗いことができなくなるぞ。汚い手を使うぐらいなら、儂はふたたび国を失うた方がましだ」 「将軍に納得していただけるような策を考えますよ」  その場のいい逃れではなく、本気だった。たしかに〈奎〉の復興、〈魁〉の再建をめざすとなれば、きれいごとばかりいってはいられない。だが、だからといって手段をえらばなくなったら、大牙も自分も終わりだという自覚——強迫感のようなものが、淑夜にはあった。  冀小狛が、それですべて納得したわけではない。だが、淑夜の身柄は引き受けてくれたし、淑夜の意見にも不承不承ながら耳を貸す。こうして、手の空いた時には、稽古の相手をしてくれるようにもなった。 「ええい、まったく面倒な」  口では文句をいいながら、ひそかに身体を動かす機会があるのを喜んでいるのも、淑夜は察していた。将軍たる者が実際の戦場に立っても、戦闘に直接、関わることはまずない。指揮を執る者が乱戦の中にあるということは、それ自体、すでに敗戦の証拠だからだ。冀小狛がいかに優れた武人でも、個人の武術の技倆《ぎりょう》を披露する機会は少ない。配下の校尉や官長《かんちょう》(部隊長)におのれの武勇をみせつける、これは絶好の場なのだった。 「——そろそろ、飽きてきたな」  どの方向から斬りつけても、たくみにかわし薙《な》ぎ払ってしまう淑夜の動きに、冀小狛はどうやら手を焼いたらしい。むろん、十分に手加減はしているが、たしかに脚が不自由な身にしては、淑夜の腕はなかなかのものである。しかも、そのおっとりとした素直そうな容貌とは裏腹に、瞬発力も持久力もある。時には地面に身体ごと投げだし頭から塵埃《じんあい》まみれになり、と、なりふり構わぬかっこうだが、粘りづよく向かってくるところが、冀小狛の気に入りかけている。それともうひとつ、秘密だが、冀小狛の方の息がそろそろ、あがりかけていた。  とはいえ、この場を回廊から見物している配下の兵士たちの手前、冀小狛の方から稽古をやめにするわけにもいかなかった。 「おぬしも、疲れぬか」 「戦場で、敵が、疲れたからといって、退《ひ》いてくれますか」 「申した、な」  こうなると、ただの意地の張り合いである。だから、 「もう、そのぐらいにしておけ」  回廊から明るい大声がかかった時には、ふたりとも内心でほっと息をついた。淑夜の方は遠慮なく、その場でくたくたと座りこんでしまったが、武人の長としての体面のある冀小狛の方は、両足をふんばって踏みとどまるのがやっとだった。 「主公《との》、いつから、ご見物で」  大牙が、回廊の端に立っていたのだ。  動いていた時よりも荒い息で、冀小狛が礼を執った。周囲で見物していた兵士たちも、皆、膝をついて控える姿勢をとっている。淑夜だけが、顔を上げる気力も無くしてただ肩で息をついている。 「みろ、強情を張るからだ」  口では吐き捨てるようにいいながらも、手をのべてひき起こしてやるところが、冀小狛らしい。何事にも公明正大、うしろ指をさされるような真似をしたことがないのが、彼の自慢なのである。 「さ、見世物は終わりだ。散った散った」  冀小狛の一喝もあって、見物人たちは蜘蛛《くも》の子を散らすように姿を消した。あとには、袖《そで》も裾《すそ》も長い深衣《しんい》を窮屈そうにまとった大牙ひとりが残った。  肩のあたりを苦しそうにしているのは、なにもその深衣が身体に合っていないからではない。大牙のために、ゆったりと余裕をもって仕立ててあるはずだが、それをまとって臨席しなければならない場所が、大牙の息をつまらせるのだ。ゆっくりとした脚どりで近づいてきながら、彼が淑夜をうらやましそうに見たのは、戎族の風俗だとしてきらわれる細身の袴や、やはり細身の搾袖《さくしゅう》がいかにも軽く動きやすそうに見えたからだ。 「だいぶ、遊んでもらったようだな」  大牙は、若い顔に苦い表情をうかべていた。大牙の、顔で嘘のつけない性格を知りぬいている淑夜と冀小狛は、まずいことがあったなと直感した。  冀小狛が、ずいと進み出て、 「合議の席で、何か?」  夏子華をはじめとする〈容〉伯の一族が、今日は一堂に会して、諸問題を討議する日なのである。月に一度のこの日、大牙は執政としてかならず臨席することになっていた。  この半年の間、座が紛糾するような大きな問題が起きていないのは、大牙にとって幸運だった。こういう席では、さすがの大牙も遠慮して言えないこともある。  実は、軍の人事や編成に関して、大牙が合議にかけずに変更させた点がいくつかある。が、〈容〉伯側でも今、下手なことを言いだして大牙を怒らせてはまずいという腹があるらしく、大牙のやり方にあまり異議をはさんでこない。ただ、これ以上のことを強引に運ぶと、あぶなくなるという警告を、先日、淑夜が発したばかりだった。 「いや、歩卒《ほそつ》の徴用増《ちょうようぞう》は、あっさり承認してくれた。連中だとて、〈容〉が強くなる分には文句はないさ」  問題はそのあとだがな、と大牙は、声を落とした。  春、夏の農繁期には、土地に人手が必要だ。どこの国でも、その条件は同じで、この季節に戦が起きることはめったにない。例外は、〈魁〉が滅ぶ直前で、国力の差が顕著に出てしまったのもこのせいである。土地を維持する人間を確保してなお、戦に動員できる人口——つまり、常備兵の多い国が、最終的な勝利を手にしたのだ。  春、夏が平和なかわり、秋、冬は戦の季節だ。そしてどこの国でも、他国の侵入に備えて兵を徴用する。一家から壮丁《そうてい》を何人、一邑《いちゆう》から何人と割り当てて、働きざかりの男たちを駆り集めるのである。  いくら収穫が終わった後とはいえ、働き手の男たちを奪われる者たちの不満は小さくない。そして、徴用の数を増やせば、その不満が膨《ふく》れあがるのはまず、まちがいがない。  それを、大牙は敢えて、増やそうとしたのである。だが、大牙の要求に応じて自国の民の不満をあおるような真似を、〈容〉伯の一族がする義理はない。  冀小狛の心配も、無理のない話だった。まして、歩卒を集める大牙の真の目的が他にあるとなれば、不安の方が先に立つ。もしや、見透かされたのではないか——と。  だが、大牙はそれをうち消すように、首を横にはっきりと振ってみせた。 「では、何をご懸念です。何事か、異変でもありましたのか」  詰め寄ってくる冀小狛から、大牙は淑夜へと視線を移した。無言のままで、しばらく淑夜の姿をしげしげと見る。ようやく息の整ってきた淑夜が、その視線の色に気づいていぶかしげな表情を作った。 「何か、私の顔についていますか?」 「ついているもなにも、ないものだ。埃まみれで、髪も眉も黄色くなっておる。房に戻る前に水でも浴びぬと、眠れぬぞ」  冀小狛が、どやしつけるように笑った。が、大牙は笑わない。 「——なにか、大事な話ですか。でしたら、衣服を整えてから、部屋へあらためてうかがいますが」 「いや——」  大牙が、めずらしくためらっているのだと、あとのふたりもようやく気づいた。それも、どうやら淑夜に遠慮をしている風——遠慮というのが不適切なら、できれば淑夜には聞かせたくない話であるらしい。 「何ですか。はっきりとおっしゃっていただけませんか。それとも、私に聞かせるわけにはいかない話ですか。それならば——」 「いや、そういうわけにもいくまい。おまえひとりが、知らないわけにも」 「なんですか?」 「——使者が来た」 「うかがっていませんが」  使者というからには、他国からの使節だろう。〈貂〉からか〈乾〉からか知らないが、国の間の使節ならば、迎える方もそれなりの儀礼と歓待の準備をもって待ちうけるものだ。だが、ここのところ、そういった儀式が行われる予定もなければ、過去に行われた記憶もない。 「密使だ」 「——初耳ですが」 「俺もだ」 「——つまり、他の方のところへ来たと?」 「昨夜、子華の館にしのびこんだ者があったそうだ」 「夏子華どの?」 〈容〉伯の一族の端につらなる人物で、先代の頃にはあまり重用されていなかった。家宰《かさい》という世襲の役目にはあったものの、税の収支計算といった下役の仕事に追いつかわれていた。それを不満に思っていたのか、それとも凡庸なくせに欲の深い主に見切りをつけたのか、大牙が勝負に出た時にいち早く、大牙の側についた。 〈容〉伯家にとっては裏切り者と呼ばれても致し方のない漢だが、意外に反発は少ない。  子華が〈容〉伯・夏子明に迫って謹慎させなければ、〈容〉は〈乾〉〈貂〉を筆頭とする、他の夏氏の国に攻めこまれていたかもしれないのだ。  しかも、大牙が執政となるや、〈容〉国と〈容〉伯の利益を遵守《じゅんしゅ》する側の代表として、大牙に対して制肘《せいちゅう》するかまえに出た。今年に限っても租税の引き上げを要求した大牙に、正面きって反対したのは、夏子華だけだったのだ。ちなみに今年の春、夏は気候温順、例年にない豊作となり、多少、余分に供出させても実害はないはずだった。それを、 「今、租税を上げると、大牙どのご自身の人望に瑕《きず》がつきますが、それでもよろしいか」  そんなせりふで、撤回させてしまった。大牙にもしも〈容〉国をのっとる野心があるなら、唯一の障害は夏子華という男になるはずだった。  その夏子華のところに、夜分、密使が来たという。 「どこからですか」 「しのびこんだ、というところで、気がつかんか」 「——もしや」  ここでようやく、息のもどった淑夜の声が加わった。 「野狗《やく》ですか?」 「そう、名乗ったそうだ」 「つまり、〈衛〉から?」 「と、自称した」 「それで、子華どのは?」 「他にしようがあるか。話を聞いたそうだ」 「だから、その話の内容です」  とはいえ、淑夜はもう、あらかたの見当をつけているような顔をしていた。実際に、 「いつまでもぐずぐずと話してくださらないのなら、私からいいましょうか」  そうまでいわれて、大牙もだまってはいられない。 「わかった。聞いておどろくな」 「おどろきませんよ」 「耿無影からだそうだ。俺と会いたい。直接会って、はっきりと盟約を結びたいそうだ」  淑夜の横で、冀小狛が獣のような咆哮をあげた。      (二)  夢を見ていたような気がしたが、目が醒めるとすべて、忘れ果てていた。 (戦の夢が見たかったのだが)  目醒めなければよかった、と思った。口惜しい思いにかられながら魚支吾《ぎょしご》は、幾重もの帳幕《とばり》にかこまれた牀《ねだい》に仰臥《ぎょうが》したまま、しばらくはじっと、上をにらみつけていた。  周囲は明るいが、朝ではない。光線のはいり具合からいって、夕方に近いはずだと、魚支吾は類推していた。呼べば声の届く範囲に、かならずだれか、侍女か侍僮《じどう》のひとりふたりは控えているはずだが、呼びたてる気にはなれなかった。呼べば、病で伏していることをことさらに思い知らされる気がしたのである。  とはいえ、今は、病はほとんど癒《い》えかけていた。 (そもそも、寝つくほどの重病ではなかったのだ)  高熱が出たわけでも、食事がとれなくなったわけでもない。ただ、夏の盛りのころから身体がだるくむくみ、時おり胸の痛みが発作のように起きるのだ。  診察をした太医は、臓腑《ぞうふ》が弱っておられますと告げた。 「何がどう悪いというわけではございませぬが、ただ、胃の腑《ふ》も心の臓もその他も、皆、疲れきっております。おそらくは、お身体と心と、双方ともに疲れきっておられるのでございます」  原因には、心あたりがあった。  そもそも、いくら頑強とはいえ、四十代もなかば。ひとつふたつ、悪いところが出てきて当然なのだ。 「しばらくの間は、俗事を忘れて休養をとり、滋養のあるものを召し上がられることをお勧めいたします」 「しばらくというと、どのぐらいだ」 「すくなくとも、三月。せめて半年の間は」  その時、魚支吾はめずらしく弱い苦笑をもらして、 「そんなことをしていたら、〈征〉は成り立たなくなる」 「御身の方が大切でございますぞ」 「孤《こ》のかわりになれる者がこの国にはおらぬ。新都《しんと》の建設もいそがねばならぬ。兵の訓練も、太学の設置も——」  政治向きのことを太医に説明しても無駄だが、支吾はいわずにはいられなかった。 「誰もおらぬのだ。安心してまかせられる者が」  世継ぎとして期待していた長子・儀《ぎ》がつまらぬ喧嘩《けんか》がもとで命を落としたのは、春のことだ。喧嘩相手は三男の傑《けつ》である。彼もまた、支吾にとっては自慢できる息子であったから、できるなら助命したかった。  だが、支吾は結局、傑を自裁させた。  人を殺した者の処罰は、法によってはっきりと定められている。そして、〈征〉は、法によって治めると決めたのも、その法を整備させたのも、〈征〉王を名乗る支吾自身だったからである。  廷臣たちの意見も割れたし、支吾も迷いに迷った。だが、王が法を破ったり、王の身辺だけが法の適用を受けないのでは、法の意味がないとの主張が通った。通らせるしかなかった。それが正論であったし、主張した漆離伯要《しつりはくよう》は自分の意見が容《い》れられないと見るや、〈征〉を退去しようとしたのだ。  小手先の脅しならば、魚支吾も屈するような人間ではない。だが、法が法として運用されない国に将来はないと、たしかに支吾自身も納得するしかなかった。  納得はしたが、伯要を呼びもどすについては、苦い薬を呑み下すような思いがまとわりついた。それがしこりのようにわだかまって、さすがの支吾もしばらくは伯要の顔を見る気にはなれなかった。  夏からこちら、漆離伯要はずっと、長泉《ちょうせん》の野に建設中の新都に監督として詰め切りである。〈征〉の王都である臨城《りんじょう》との間には密に連絡をとる必要があり、これまでは直接に支吾があたってきたが、これを支吾は宿老の将軍・禽不理《きんふり》をいったん通すように改めさせた。  病が、いい口実になったのは皮肉である。  だが、それでも支吾は伯要を手離す気にはなれなかった。 「あの男は、切れすぎる」  どれほど小面憎《こづらにく》く思っても、支吾は漆離伯要という人間の才能を高くかっている。すくなくとも、新都の建設をやりおおせられるのは、漆離伯要しかいるまい。実際、ほとんど任された状態になっても、新都は、当初、支吾が意図したとおりの規模と工程で建設が進んでいるという。〈征〉に必要な人間というだけではない、他国へ出せば、〈征〉にとって大きな災いになる。だから——。 「陛下——」  女の声が、帳幕のひだの間を縫ってしのびこんできた。 「陛下、お目覚めでいらっしゃいましょうか」 「なんだ」  おずおずと怯《おび》えた声に、逆に支吾はいらだった。重い帳幕が侍僮たちの手でもちあげられ、姿を見せた侍女がその場に平伏して告げた。 「御寝《ぎょしん》をおさまたげ申しあげ、まことにおそれいりますが——」 「目は醒めていた。何事か、申せ」  絹の衾《ふすま》をわざと乱暴にはねのけながら、上半身を起こす。 「おそれながら、禽不理さまのおいででございます。火急、ご報告したき儀がございます由。いかが、とりはからいましょうか」 「次の間へ通しておくように。起きる」  数人の侍女が、その言葉を合図のように、衣服を目の高さにささげ持って進み出てきた。どの娘も、若く見目麗《みめうるわ》しい。〈征〉の国中からよりすぐった女たちなのである。  正妃と側妃、数人の妻を持つ魚支吾だが、嫡男と三男の争いがあわや廷臣たちを分裂させかねない争いになって以来、今のところ女たちに目をかける気はなくしていた。廷臣たちの分裂は、そのまま、正妃・晏妃《あんひ》と蘊《うん》夫人との対立を引き移したものだと気づいていたからだ。この上、新しく対立の種を増やす気にはなれない。  ただ、娘たちが居並びかしこまって仕えるようすには満足していた。彼女らの美しさ、まとった衣装の豪華さはそのまま、〈征〉という国の広さ、強さ、豊かさの象徴だったからだ。  手早く衣服をととのえて、支吾は禽不理の前に現れた。 「おそれいります。ご病中にまことに申しわけございませぬが——」 「重病人あつかいするな」  恐縮する禽不理に、不機嫌に支吾は応対した。〈征〉の宰相職も兼ねる禽不理が、必要と判断して面会を求めたのだ。それなりの理由があるはずだし、それをいちいち、虫の居処でとがめだてするほど支吾は狭量ではない。彼が厳しくあたるのは、おのれに与えられた役割を満足にこなせない人間に対してだけだ。 「なれど、太医どのの意見によれば——」 「あやつらのいいなりになっていては、国が立ちゆかぬわ」 [#挿絵(img/04_077.png)入る]  実際、朝見《ちょうけん》の儀など、おもてだって人前に立つ公式の行事はここひと月、とりやめになっているが、寝室に近い部屋に重臣たちを集めての政務の処理は、数日ごとに続けている支吾である。また、そうでなくては、病中の主君に無理に面会を求めてくるような真似を、禽不理ができるわけもない。 「それで、何事だ」 「〈琅《ろう》〉へ派遣していた使者が、たちもどりました」 「会おう。連れてくるがよい」 「いえ、まだ、臨城《りんじょう》には至っておりませぬ。新都にはいったのを、その、漆離伯要めが知らせてよこしたものでございます」  伯要の名で、一度、口ごもったのは、禽不理が彼に対してよい感情を持っていない証拠だった。三公子・傑に法に殉じるよう主張したのは、漆離伯要。そして、禽不理は傑の母である、晏妃側の勢力の人間だった。  その人間を、わざとおのれと漆離伯要の間に置いたのは、支吾なりの考えがあってのことだ。 「首尾は?」 「おおむね、諾とのことでございます」  と、その声にも苦みがまじる。伯要の手柄ではないのだが、伯要を通して報じられると吉報にもけちがついたように感じられるのだろう。つまらぬことにこだわるなと禽不理をとがめようとして、支吾はいったん口を開いたが、禽不理が続けたことばに当初の目的を忘れてしまった。 「使者は、〈琅〉国の者をともなって、もどってまいりましたそうで」 「〈琅〉の使節か」  璞をひきとりに来たのかと思ったのだが、 「いえ——本人は、護衛としてこちらの使者を送ってまいっただけと申しておるそうでございます」  こちらから送ったのは、ただ、内密に提案を打診するための、いってみればさぐりをいれるための使いだから、名や身分のある者ではない。ただ、書簡を運ばせただけの人間であって、書簡さえ無事に届けば、ことによっては向こうで殺されてもかまわないと思っていた。それを、ごていねいに送りかえしてきたというところで、支吾は意外な思いをした。  たしかに、〈琅〉と〈征〉の間は遠く、交通も便利だとはいいがたいものがある。西の百花谷関《ひゃっかこくかん》から入り、かつての〈魁〉の領土を通りぬけて巨鹿関《ころくかん》から長泉の野の新都に至る——南北をふたつの大きな山脈にはさまれたこの細長い土地は、たしかに現在〈征〉の版図だが、実は支吾はあまり重視していない。厳重に守っても、南北から挟撃《きょうげき》される可能性もある。東西の関を守っても、かえって封じこめられるようなことになりかねない。どちらにしても、長くは持ちこたえられない土地だと判断したからだ。  現在、〈魁〉の旧都・義京には最低限度の兵を駐留させてあるだけで、治安はよいとはおせじにもいえない。だから、護衛というのもまるきり必要でないわけではないのだ。だが、かといって、〈征〉の国内を通行するのに、他国の兵に守ってもらう必要がないのもたしかである。 「——〈琅〉の礼は、少々変わっているらしい」  つぶやいたのは、皮肉をこめてのことである。  とはいえ、悪い話ではない。むこうが身分の低い使者にまでそれだけの気づかいをしたということは、とりもなおさず、〈征〉を恐れているということだ。  さらにうがった見方をすれば、護衛役に名を借りた、返礼の使節を兼ねている可能性もある。 「それで、その護衛とやらは」 「——漆離伯要めが、新都にとどめておる模様。まず、処遇を陛下におうかがいしてから、などと申しておりますが」  そんな殊勝な人間ではないことは、禽不理も魚支吾もよく知っている。必要とあれば、支吾に対しても事後承諾で、好きなように采配《さいはい》してしまう漢である。 「いかが、とりはからいましょうや」  と、禽不理は口調で、不満を表現した。  さっさと追いかえしてしまえといいたかったのだろうが、指図をきらう主君の手前、はっきりとはいえなかったのである。それはわかっていたが、支吾の思考は別のところをさまよっていた。 「その護衛の名は、わかるか」 「は?」 「〈琅〉の使者の名だ」 「——いえ、それは、聞いておりませぬが、どちらにせよ、こちらの使者と同様、身分のある者ではないと思われます。なにしろ、護衛の長も随行の兵も皆、馬に乗っていた由。さらに騎馬のまま、新都の役所内に踏みこんできたもので、あやうく騒ぎになるところであったそうでございます」  馬に直接乗るのは、戎族か、蛮族と大差ないいやしい者という認識が、ことに〈征〉の人間には強い。禽不理の口ぶりにも、それとはない侮蔑の響きがあった。  だが、支吾はその「馬」という言葉で別の連想をしたようだ。 (もしや——) 「至急、支度を」 「支度——?」 「新都へ行く支度だ」 「とんでもない。無茶はなりませぬぞ」  膝立ちになって、禽不理は両腕を広げた。身体を張ってでも止めるというかまえだったが、支吾は取りあわなかった。 「行くまで、その護衛とやらをとどめておくように、伯要に指示を出しておけ」 「陛下! 太医の話では、あとふた月はご静養いただくようにと——」 「寝ている場合ではないのだ。直接、その護衛とやらに会う。いや、姿を確認せねば、気がすまぬ」 「いったい、何者でございますか、その者は。そもそも、陛下がおんみずからおでましになるような者では、ございませぬ。他の者をお遣《つか》わしになればよろしいことではございませぬか。必要とあれば、それがしがまいってもよろしい」 「そなたには、わからぬ。とにかく、〈琅〉との盟約の件は、他人まかせにはできぬ。孤が直接に出向く」 「ならば、臨城に呼びつけるべきでございます。こちらから、出向くなど」 「いや——」  一瞬、ためらったあと、支吾は首をふった。 「新都でよい。久々に新都を見たいのだ」  あわてて太医が呼ばれたが、支吾の意思に抗する術《すべ》はなかった。  太医に限らず、今、この国で支吾に逆らい得るのは、漆離伯要ぐらいなものだ。かくして、〈征〉王・魚支吾は威儀を正した行列をしたがえて、ほぼ半年ぶりに建設中の新都に現れたのである。 「——お久しゅうございます」  出迎えに出てきた漆離伯要が、多少の皮肉をこめて挨拶を述べた。だが、悪びれた風はかけらもない。春以降の支吾の屈託に、そ知らぬふりを通すつもりでいるらしいのは、そのひとことでわかった。 「〈琅〉から参ったと申す者は」  支吾も、かるくうなずき返しただけでさっそくに問い質した。 「ご命令どおり、宿舎を与えて滞在させてあります。このようなところ故、歓待責めというわけにもまいりませんが」 「ようすは?」 「まだ若い、青二才です。何もわかっておりませんようで、ただ、とまどっているばかりです」 「青二才?」  漆離伯要の軽侮の声はさしおいて、支吾は首をひねった。 「名は?」 「徐夫余《じょふよ》、と名乗っております」 「徐——?」 「どうやら、ご期待の人物とは異なったようですな」  またしても、皮肉まじりのせりふである。だが、その皮肉はおおむね、伯要自身に向けられたもののようだった。ということは、伯要もまた、〈琅〉の護衛とやらに失望を味わわされたのだろうか。 「誰だと、お思いになりました」 「——そなたの知らぬ漢だ」 「当ててごらんにいれましょうか。赫羅旋《かくらせん》でしょう。〈魁〉の戎華《じゅうか》将軍・赫延射《かくえんや》の息子の」 「——知っていたか」 「直接の面識はありませんが。巨鹿関の戦、百花谷関の逃避行の指揮を実質的に執《と》った漢の名は、誰もが知っておりますよ」 〈衛〉の耿無影と〈奎〉の戦《いくさ》だった巨鹿関はともかく、百花谷関は〈征〉の戦いだった。いや、実際には、一方的に〈奎〉の段大牙が逃亡するのを追撃しただけで戦闘は行われていないが、もしも〈征〉の軍が追いついていれば、〈奎〉はそこで全滅していただろう。〈征〉の追撃が及ばなかったのは、支吾が赫羅旋の存在を意識しすぎ、決断を遅らせたからだ。口にはしないが、すくなくとも伯要はそう思っている。  当時、同じ陣中にあれば助言も決断もできたのにと、伯要にとっても百花谷関は苦い戦だったのだ。 「一時、行方をくらましておりましたが、〈琅〉に現れたという噂は、新都にも届いております」  建設中の城壁の、さらに西の空を眺めやりながら、伯要は自分自身につぶやくように答えた。 「新都にも頻繁に、商人がまいるようになりましたし、土地を離れた農民どもが働き手として流れこんでまいりますから」  都城の建設は、基本的には税の一環としての、民人の労働奉仕ですすめられているが、これほど大きな都となると、なかなかそれだけでは間にあわない。自然、流民たちを集めることになるし、彼らもまた、食いはぐれることがないところへ自然に流れこんでくる。人が増えれば、需要も増える。建設資材をととのえて来る大商人のみならず、行商の小商人たちがはいりこむ余地も生まれる。食料などは支給されるものでまかなえるが、他にも衣服や什器《じゅうき》といった生活に必要なものは多くある。十分、商売が成り立つのだ。  人が集まるところには、噂話も流れこむ。それに、伯要も敏感に反応していたのだろうし、馬と聞いて、支吾と同様に、すわ——と、身構えたのだろう。だが、結果としてはあてがはずれたことになった。  それを指摘すると、 「いえ、それが実は、それほど的はずれでもないのですよ」  笑いながら、先に立って案内をする。  ——都の外郭の城壁の建設と同時に、要《かなめ》となる王宮の建築も進められている。役所の棟を整然とならべる予定の土地はまだ、大半が整地のすんだ空き地のままだが、その中の一角の建物だけが、ほぼ完成の姿をみせていた。完成といっても、簡素な屋根と壁、床ができあがっただけで、調度などは急ごしらえの粗末なものがちらばっているばかりだ。それでも人の影がちらほらとしているのは、ここが太学《たいがく》としてすでに機能を始めているからだった。  学問と人材登用の必要を説いた漆離伯要は、支吾に許しを得て、王宮内の土地に太学——つまり、公の学問所を建設した。他の役所や王の住まいたる宮殿の建設を後回しにして、太学の建物だけを真っ先に、半年ほどで造ってしまったことについては、はっきりと非難の声があがっている。だが、伯要との約定《やくじょう》——新都の建設の手順に関しては口出しをせぬというのを守って、支吾はいっさい、知らぬふりを通した。  こうして、直接に太学だけが建っているのを見ても、その鋭い眉のあたりに、小さなしわを寄せたのみである。  伯要は、その微妙な表情を読みとって、すぐに説明を加えた。 「——宮殿には、それなりの威容というものが必要です。ですが、太学に要求されるのは中身だけです。立派な建物を建てても、役に立つ者を送りだせなければ、あばら家と変わりありません。逆に、中身がきちんと機能していれば、屋根と床だけでもよろしいのですから」  他人が口にすれば言い訳に聞こえかねないせりふが、この男のことばになるとがぜん、説得力を持ってくるのは不思議だった。 「もう、人を集めておるそうだな」  これもまた支吾の許可を得、まず士大夫の子弟から何人かを選抜して、新都へ呼びよせている。  ちなみに、講師は伯要みずからがつとめている。  この中原では伝統的に礼学《れいがく》とよばれる学問が主流で、伯要もかつての都・義京で礼学を修めている。目上をうやまい目下を慈しみ、秩序と形式を重んじるというのが、礼学の主眼なのだが、伯要は敢えて、礼学を否定するところから教えはじめているという。  曰《いわ》く、必要なのは実際に役立つ能力である。礼儀作法に通じているのは悪いことではないにしても、外見だけをとりつくろっても無用である。戦に応用のきく知識、人心の収攬《しゅうらん》の方法、税を効率的にかける仕組み、等々。  礼学では卑しいとされていることを、学問として体系的に学ぶようにと説いたのだ。〈征〉は他国とは異なり、法を以《もっ》て国の礎とする学問——刑学《けいがく》とよばれるものがさかんなのだが、それでも礼学も並行して、素養として学ばれていることが多い。  故に、集められた弟子たちも、とまどっているという報告が支吾のもとにも届けられていた。 「人を教育するには、時間がかかります。それでなくとも、〈衛〉の耿無影に比べれば、着手は一年以上、遅れています」  力説してから、ちらりと笑い、 「そういえば、例の〈琅〉の、徐夫余と申す者。なかなか教育しがいのありそうな若者でして——」 「的はずれでないとは、その意味か」 「ああ、いえ、そうではありません。つまり、徐夫余は、赫羅旋の直属の配下だったというわけです」  砂を敷きつめただけの院子《にわ》を抜け、漆喰《しっくい》の荒壁の回廊を渡って、奥まった一棟にたどりつく。この広間は、日ごろ、伯要が学問を講じる場らしく、脇に寄せられた几《つくえ》に使いこまれた痕跡が見えた。その一室の、はるか下座に若者は、ぴたりと平伏して支吾を待ちうけていた。 「〈琅〉からの護衛の任、ご苦労であった」  返答はない。  ただ、頭の頂点が床にすりつけられたのが、支吾の位置から見えただけだ。 「〈琅〉公・藺如白《りんじょはく》どのの配慮、かたじけなく思うておる。もどったら、そう伝えよ」  再び、頭が上下する。 「如白どのは、ご壮健《そうけん》か。そういえば、玉公主《ぎょくこうしゅ》どのは、如白どのの姪御にあたられるはず。以前、お目にかかったこともあるが、ご壮健でおわそうか」  声もなくうなずくばかりで、物足りないことおびただしい。顔が見えないことに、支吾は不満をいだいた。 「顔をあげよ」  四度目の上下が認められたが、命令が行われる気配はなかった。 「顔を見せよと命じておるのだ。きけぬのか。それとも、聞こえぬか」 「陛下、あの者は、緊張して何もわからなくなっておるのです。お叱りになりませんよう」 「朝議の席でなし、内密の面会に、何をそのような」 「慣れておらぬのですよ」 「仮にも士大夫が、礼のひとつも知らぬはずはあるまいが」 「——お怒りになりませんよう。徐夫余は、士大夫ではありません」 「なに——」  と、拳をにぎりかけて、直前でぐっと思いとどまったのはさすがに魚支吾である。  士大夫でもない、ただの平民を使節に送ってよこしたのは無礼——という論理は、この際、通らない。徐夫余はただの護衛として、腕力の点だけを見こまれて起用されてきたにちがいない。まさか〈征〉王・魚支吾じきじきに、引見《いんけん》の栄《えい》に浴するなどとは、本人も、また任務を命じた〈琅〉の藺如白も、予想していなかったにちがいない。  聞けば、〈征〉の使者を巨鹿関まで送りとどけたら、すぐに引き返してくるように命じられていたという。それを無理にひきとめたのは、漆離伯要と、支吾の指示である。 「話に聞きましたが、赫羅旋の下には、こういった農民や流民が多く集まっていると申します。皆、馬を乗りこなし、〈琅〉ではなかなかの強さを誇っているとか」 「ふむ——。だが、辺地の〈琅〉でどれほど強いといっても、あてにはならぬぞ」 「身分によらず、強い者はどんどんと登用されているとも申します。もっとも、いろいろと軋轢《あつれき》も生じていると申しておりますが」 「——あの者が話したのか」 「なかなか純朴な若者で、尋ねたことは誠心誠意、答えてくれます」  伯要の口調に、苦笑が混じった。 「教育のしがいがあると申しあげたのは、このこと。少し話してみましたが、礼儀作法は知らないものの、受け答えはしっかりとしておりますし、素直です。教えたことは、水が砂に染みるように呑みこんでしまうでしょう。学問があっても、下手な矜持《きょうじ》まで持っている者より、よほど物になりましょう」  他人の長所をここまで手ばなしで誉めるとは、伯要にしてはめずらしいことだった。これもめずらしいことに、うんざりしたといった感情が、わずかに含まれていた。どうやら、弟子として集めた士大夫の子弟に、手を焼いているらしい。支吾も、苦笑を返して、 「では、あの者をひきとめてみるか。これ、ここへ——」  手招きしたが、見えるわけがない。見えたとしても、とてもではないが寄ってくる度胸はなかろう。  ——と、見るや、支吾はついと座を立ち、徐夫余のかたわらへと歩みよったのである。伯要も、急いでそれに倣《なら》う。  手を伸ばせば、届く距離である。徐夫余が武器を携帯していないことは、前もってわかっているが、それでももしや、ということもある。  万が一の事態には、自分が盾になれる位置に、伯要は控えた。  一方、支吾は徐夫余のかたわらに片膝をつくと、 「顔を見せよ」  命じるだけでなく、肩に手をかけて引き起こした。 「こ、これはご無礼を——」  あわてて、座った姿勢のまま後ずさろうとするのをつかみ止めて、 「徐夫余、と申したな」 「は、はい!」  陽に焼けて浅黒い顔だちに、いかにも純朴そうな目鼻だちがならんでいる。端正というには遠いかもしれないが、それなりにすっきりと素直で好感の持てる顔だちだと、支吾も思った。威圧感も品もないかわり、だれにも——ことに庶民に好かれる顔だ。 「どうだ。このまま〈征〉にとどまって、儂に仕えぬか」 「は?」 「聞こえぬか。儂の臣になれといっているのだ。封禄《ほうろく》は望むとおりにしてやろうし、重く用いると約束しよう」 「——お許しください」  長身を折り、せっかく上げた顔を再び床にこすりつけて、徐夫余は叫んだ。 「断ると申すか」 「申しわけありませんですが」 「なにも、即座に決めることはない。よく、考えてから答えればよいのだ。今夜、一晩を与えようほどに」 「一晩、いえ、たとえ百日考えても同じことだと思います。俺、俺、いや私は——」 「落ち着いて、申しあげるがよい」  さすがに伯要も、額にしわを寄せて、むずかしい表情となる。これほど、短時間にきっぱりと断られるとは、ふたりとも思っていなかった。 「何故、そこまでいいきれる。時間をおけば、考えも変わるかもしれないではないか」 「も、申しあげます」 「うむ」 「俺、いえ、私は、礼儀知らずでうまくいえないんですが——いや、申しあげられないのでございますが——」 「ことばづかいなど、どうでもよい」 「じゃ、申しあげます。いくら考えても、俺が、〈征〉王さまにそんなことをいってもらえるような人間だとは思えないのです」 「今はそうかもしれぬ。だが、ここにおる漆離伯要が、教育を受ければ有用な人材になると申しておる」 「俺は、学問は苦手です。それに」 「それに?」 「堅苦しい礼儀作法も」 「それは、我慢だ。出世できるのだぞ。どんな望みも、思いのままになるのだぞ」 「俺の望みといったら、少しの土地を耕して静かに暮らすことぐらいです」 「土地なら、やろう」 「でも、王さまにお仕えしてしまったら、土地をもらっても耕せません」 「なにを、莫迦なことを——」  嘲笑《わら》おうとして、支吾の表情がわずかにゆがんだ。一瞬の、自分でも制御できない動きだったにちがいないが、それが支吾の本心からの反応であることは間違いなかった。 「そんなことを申しても、現在のおまえだとて、土地を耕しておらぬではないか」 「とられてしまいました」 「奪われた? だれに」 「——その」 「申せ。孤が取りもどしてやろう」 「無理だと思います」 「とにかく、申せ」 「——俺は〈奎《けい》〉の民です。いえ、でした」  深呼吸をしたあと、思いきって吐きだすように、徐夫余は一気に告げた。 「も、申しわけありません!」 「——何を、謝る」  だが、憮然とした表情は、かくしきれるものではなかった。  この若者が奪われたという土地は、現在、〈征〉の領土となっているのだ。直接、支吾が所有しているわけではないが、〈征〉の卿大夫のだれかの所領《しょりょう》となっているはずだ。奪ったのは支吾だと、本人の眼前で告発してみせては、ふつう、無事ではすまない。徐夫余も迷ったのだろうが、ごまかしきれないとも思ったのだろう。それとも、生来、小細工や嘘がつけない性格なのだろうか——。  その正直さに、一瞬、支吾は目まいがするほどの羨望《せんぼう》をおぼえたほどだ。  こんな莫迦が上につく正直では、政に起用するには不向きだ。だが、武人としてなら——。しかも、まだ若い。伯要のいうとおり、教育次第で、忠実きわまりない側近をそだてられるかもしれない。  新都へみずからおもむいたのは、そもそも赫羅旋の出現を期待してのことだ。〈征〉に苦い水を呑ませた漢だ、きっとまた、何事かたくらんで来たのだろう、ならば返り討ちにしてやると身構えてやって来たのに、みごとに肩すかしをくらわされた。  おそらく伯要もまた、羅旋が〈琅〉の使者として現れることを期待していたのかもしれない。羅旋でなくとも、弁舌を戦わせられる知恵者が来るものと思っていたにちがいない。それが、こんな正直な若者が来ても、相手にならないとがっかりしているにちがいない。  だが、ものは考えようだ。  この若者を説き伏せられれば、羅旋にも、〈琅〉公・藺如白にもひと泡、ふかせられるかもしれない。 「——そうか。〈奎〉の遺民《いみん》か」  支吾は、みずからにいい聞かせるようにつぶやいた。 〈奎〉の人間なら、百花谷関から巨鹿関の間の地理にも明るい。護衛として抜擢されたのには、その理由もあったのだろう。 「申しわけ——」 「いや、謝ることはない。〈奎〉ならば、かえって話が早いではないか。さっそく、そなたに返してやろう」 「ほんとうですか?」  喜色を満面にうかべて、ぱっと顔をあげた徐夫余は、次の瞬間、とんでもないことをいいだした。 「他の者にも、返してやってくださいますか」 「——それは」  その率直さに、支吾は絶句するしかなかった。伯要がみかねて、口をはさんだ。 「図にのるものではない。それは、できぬ相談だ」 「なぜ、ですか」 「何故といって——」 〈奎〉が滅んだ時に、土地を離れて逃散《ちょうさん》した農民がどれほどいるか、調べようがない。それをいちいち、調べて返してやる義理など〈征〉にはない。そんなことをするぐらいなら、最初から侵攻も占領もしていない。また、今さら前の持ち主に返却するとなれば、現在の持ち主——新たに領主となった〈征〉の士大夫や〈征〉から移住した者が納得するまい。  だいいち、そんなことを始めたならば、ついには国全体を〈奎〉伯家に返却しなければ、筋が通らなくなる。亡命中の段大牙が〈容〉の執政におさまったと聞いて、病床で激怒した魚支吾には、とうていできない相談だった。 「それなら、俺もけっこうです」  徐夫余は、決然と告げた。告げてから、決意はひるがえさないぞといいたげに、きっとくちびるをひき結んだ。ただ人が善《よ》いだけの若者の顔が、精悍な武人の表情になった。 「〈征〉に仕えていない者にまで、土地をやることはできぬ。それぐらいの道理は、わかるであろう」 「はい」  伯要の声は理屈っぽいが、おしつけがましくはない。徐夫余も、素直にうなずいた。 「では、そなたの土地は返してやるほどに、〈征〉に仕えてくれるな」 「いえ。もう、けっこうです」 「もう、よい?」 「土地に——前の土地にこだわる気は、ないのです」 「だが、先ほど、土地を耕すと——」 「〈琅〉にも、土地はあります。今はこうやって武人として〈琅〉のために働いていますが、そのうち、歳をとったら適当な土地をもらうか買うかします」  一点のくもりもない表情で、徐夫余は続ける。 「それなら、だれにも迷惑はかけません」 「それで、よいのか」 「仮に、〈征〉にお仕えすることにして〈奎〉のもとの土地を返してもらったとしても、今、そこで暮らしている人を追い出すのは気の毒です。他の土地をもらうにしても、おなじことですから。俺——私は〈琅〉へ帰ります。申しわけありません」  そう告げて、ぴたりと平伏した。  その頭の上で、支吾と伯要の視線が合った。 「いたしかた——あるまい」 「陛下」 「ご苦労であった。さがってよい。本日中に、〈琅〉公への親書を書く故、それを持って帰国するがよい」 「ありがとうございます」  膝だけで器用に後方へにじり、徐夫余は姿を消した。  そのあとを、鋭い目の隅でにらみつけながら、 「人を登用するとは、むずかしいものだな」  みずからを納得させようと努力する声だった。 「いっそのこと、捕らえて諾《だく》というまで監禁してやった方が簡単なのだろうが」  それでも、拒みとおす莫迦も世の中にいることを、支吾は知っている。たとえそれで承知させたとしても、心底からの忠誠は得られないことも、かえって世評が悪くなることも。  無理はするまいと、支吾は思った。  惜しいが、ふたりとない逸材というわけでもない。それより、拒絶されても鷹揚《おうよう》に許してやったと評判をとる方がよい。それにしても——。 「——ふたり目だな」  魚支吾はつぶやいたのだった。 「は——?」 「孤の招請《しょうせい》に応じなかった者だ。以前に、ひとり。あやつが、ふたり目だ」 「それは——」  今度は、伯要が憮然となった。さすがに、顔は支吾に見せないように気づかったか、あらぬ方を見るふりをした。  漆離伯要には、〈征〉王・魚支吾みずからの招きをうけて〈征〉に仕えたという自負がある。  魚支吾は、有為《ゆうい》の人材と見れば、自分からでかけていく。そうやって直接支吾に説かれて仕官した者は、伯要だけではないのだが、数多いというわけでもない。  選ばれたという意識が、伯要を支える誇りのひとつであり、支吾のために働いているのも、おのれという人間を評価してくれた支吾への返礼のつもりである。伯要もまた、支吾という君主を評価していたのだ。  だから、支吾の誘いを一蹴するということは、とりもなおさず伯要の誇りをも踏みつけにしたということになる。  たった今の徐夫余の場合は、まだ許せる。しょせんは、農民出の青二才のいうことだ。純朴だが無知な若者が、魚支吾の〈坤《こん》〉の覇王たるにふさわしい器量の持ち主だと気づかないのも、いたしかたない——実際のところ、欠点もある主君だとは知っているが、そう思ってしまえば、腹もたたない。だが——。 「——いったい、何者ですか」 「何?」 「ひとり目の、その無礼者とは」 「そんなことを訊いて、なんとする」 「いえ、後学のために、うかがっておきたいだけです」 「ふむ」  支吾は鼻先で笑った。 「聞きたいか」 「は」 「——三年前、〈衛〉の耿無影に迫った刺客だ」 「あの、耿淑夜《こうしゅくや》——?」 「今は、〈容〉にいると聞いている。領土も持たぬ段大牙の下では、逼塞《ひっそく》するしかあるまいと思っていたが」 「段大牙を〈容〉の執政にするについて暗躍し、大牙|麾下《きか》の将軍の配下におさまっていると聞きおよんでおりますが?」 「うむ」 「そうですか、あの、耿淑夜が」 「耿無影に対しての刺客として、使い捨てにしてやろうと思うていたが——」  そこで苦い顔をして、 「正直、あそこまで、やるとは思わなかった」  支吾は、吐き捨てた。  三年前に、それこそ拉致《らち》してでも臣にすればよかった。謀士《ぼうし》のひとりとして使えば、あるいは大きな力になってくれたかもしれない。当時、文字通りの青二才でしかなかった耿淑夜の、まだ少年の影を残す顔だちを支吾は思いうかべていた。  逃した獲物は、案外、大きかったのかもしれない。  そんな悔いが、表情に出たはずはない。  だが、じっと主君の面を見ていた漆離伯要は、 「——いかがでしょう。無礼者同士、戦わせてみるというのは」 「何?」 「徐夫余は、〈琅〉の赫羅旋のもとにもどるのでしょう。では、赫羅旋を〈容〉の段大牙に当らせてみてはいかがですか」 「〈琅〉は、〈衛〉の後背を衝かせる予定だが」 「そして、こちらが〈衛〉と対峙《たいじ》する間に、〈容〉に攻めこませるわけですか」 「…………」 〈容〉と〈衛〉の間には、たしかに連係があると思われる。今のところ、確たる証拠がつかめないでいるが、春先の動きを見ていればだれでもわかるし、その関係がまだ切れていない可能性は強い。いや、春以上に強固になると見て、よいだろう。 「せっかく、〈琅〉と手を結んだのです。その分は、働いてもらいましょう。〈琅〉が〈容〉に——〈容〉をはじめとする小国群に戦を仕掛ける口実は、いくらでもあるはずです」  国境の問題は、どの国でも抱えている。〈琅〉は、〈衛〉との問題はこの春、譲歩する形でわが手で決着をつけているが、たしか〈乾〉との間で、まだひとつ懸案を残していたはずだ。 「それでどちらが負けたところで、〈征〉の損には決してなりません」 「ふむ——」  支吾は、また鼻を鳴らした。 「悪い話ではなさそうだな」  だが、支吾の伯要を見る目は冷たかった。小細工をしてくれる——と、いいたげな眼だった。気にはくわないが、策としては上策なので採用せざるを得ない、といったところだろうか。 「どちらかといえば、〈琅〉の方に滅んでほしいものだな」 〈容〉が残ってほしいという意味ではない。生き残っても、すぐに滅ぼしてやれるという自信を含んだことばである。 「〈衛〉の問題さえ片付けば、早晩、〈琅〉も〈容〉も、そうなりましょう」 「そうなると、よいのだがな」  ゆるやかに裾をはらって、支吾は立ち上がった。 「とにかく、藺如白をそそのかしてみよう」 「久々の新都です。せっかくおいでになったのですから、工事の進行状況でもごらんになっていかれますか」 「いや、明日は臨城にもどる」 「少し、お話ししたいこともございますが」 「急ぐ話か」 「いえ」 「では、あとで聞こう。書面で臨城に送ってもよい。いずれ、読もうほどに」 「あまり行き来を急がれては、お身体にさわりませんか」 「さしで口がすぎるぞ、伯要」  とがめられても、伯要は肩をすくめただけで、こたえたようすはない。 「では、のちほど薬湯《やくとう》を」  いった時には、伯要はこの広間にただひとり、とりのこされていたのだった。      (三) 「子華《しか》どの」  かけた声に応じてふりむいた顔は、思ったよりもおだやかだった。  うだつのあがらないまま年齢を重ねた面相は、どこかとりつきにくい気むずかしさを漂わせている。あまり人見知りはしない淑夜だが、なんとはなしに、この先祖代々からの〈容〉の家宰《かさい》は苦手視してきた。  嫌いというほど、積極的な感情ではない。春の騒動の時には、真っ先にたって主君である夏子明にせまり、大牙を解放させてくれた恩人でもある。大牙の目的についても、理解をしてくれている——らしいとは思うのだが、反面、彼に対して悪いことをしているのではないかというやましさがある。すくなくとも、淑夜がやっていることは、どう考えても子華に大きな利益がみこめる仕事ではないのだ。 「——何か、ご用ですか」  親子ほども歳の若い淑夜に、子華はていねいな口をきいた。むやみにへりくだるわけでなく、かといって居丈高《いたけだか》になるわけでない。ごく自然に、対等な距離と高さをとって、子華は淑夜にむきなおった。 「兵たちに支給する糧食《りょうしょく》と衣服のことで、ご相談があるのですが」  淑夜も、さりげなさを装って答えた。年齢のわりに白髪の多い頭をふって、子華はすぐに応じた。 「では、そこの部屋で」  回廊のすぐ先の棟には、〈容〉を管理する役所が設置されている。国の方針を決めるのは、国主と卿大夫の役目である。現在ならば、執政たる大牙であり〈容〉伯家につながる一族の代表だが、決められたことを実行にうつすのは役所である。  租税を例にあげれば、徴収する量を決定するのは国主だが、どれだけ必要かを計算するのは下役人たちであり、それを実際にとりたて、適切に配分するのも下吏《かり》たちなのである。だが、実務を重視しない礼学の風潮はこれまで、官吏たちを身分の低いものとして士大夫たちの下に置いてきた。まして、金銭に関わるような仕事は、銅臭《どうしゅう》と呼ばれてさげすまれがちだった。  夏子華は、代々、〈容〉伯家の家宰をつとめてきた。  本来、家宰とは国主の「家」の運営をつかさどる役目で、生活上の世話から冠婚葬祭の儀式の運営、さらには後継問題までを統括する重要な役目である。ところが、〈容〉伯・夏子明は家宰の干渉をきらいぬいたあげく、子華の家から世襲の役目を次々ととりあげて、子華には租税の管理といった下役人の仕事しか任せなくなった。幸か不幸か、夏子華は計算に明るかった。為に、国主の遠戚にもかかわらず、彼はこれまで、暗い役所で下吏と机をならべ、ただ黙々と計算ばかりしてきたのである。  不遇の時代を、文句ひとついわなかった彼は、大牙の登場によって時を得た。現在、彼は幼い〈容〉伯・夏弼《かひつ》の後見人として、大牙と並ぶ地位にある。家宰という職名は同じながら、その職が管轄する範囲も数字の桁も格段に広がった。——にもかかわらず、彼はもとの仕事場から出ようとせず、以前と同様の地味な仕事をこなしているのだった。  午後も遅い役所は下吏たちの姿もなく、几《つくえ》も片付けられてうつろな印象があった。だが、 「ここならば、誰の邪魔もはいらないでしょう」  子華は、そういって口だけで笑ってみせた。いかつく錆びついたような笑いだったが、不快ではなかったから、淑夜は内心でほっとした。 「糧食のことなど、邪魔がはいったところでかまいませんよ」  と、そらとぼけはしたが、こちらの本題を先に察知してくれているらしいのも助かった。 「その件なら、ここに全部、用意してあります。これぐらいでとりあえず、いかがでしょう」  と、竹簡《ちくかん》の綴《つづ》りを一巻、壁の棚からとりだして手渡してくれたのには、頭が下がる思いだった。軍を維持する物資の手配は本来、別の役職があるのだが、結局、淑夜が便利に使われている。子華ほどではないが、淑夜も数字は苦手ではない。その上、 「——けっこうです」  竹簡をざっと一読しただけで、数字も文字も覚えこむ特技の持ち主とあっては、それを最大限、活用しない方がおかしい。  さすがに、 「それだけで、よろしいのか」  竹簡をあっさりと返されて反射的に受け取りながら、子華は心配そうに訊いた。 「写しは、あとで作りますから。ところで、子華どのには礼を申しあげなければなりません」 「私は何もしていませんが」 「〈衛〉からの使者の件、大牙さまひとりの耳にだけ、告げてくださったとか」 「ああ——」  そのことですかと、子華はうなずいた。 「いや、何も大牙どののお立場を気づかったわけではない。私自身が内通などという疑いをかけられても、つまらぬと思っただけのこと。礼をいわれるようなことではありません」 「最初に大牙さまからうかがった時には、私もあわてました」 〈容〉の卿大夫のいならぶ前で、いきなり〈衛〉との密約の存在を暴露されては、いくら大牙でも無事ではすまなかっただろう。盟約自体は、けっして不利なものではない。〈衛〉と〈容〉が手を組んで、〈征〉にあたろうというものだ。理を述べて順に説いていけば、ほぼ全員の賛同を得られるという自信が、淑夜にもある。  だが、個人個人にも利害の思惑があり、大牙の存在を快く思っていない者もいるとなれば、話は別だ。衝撃的な話を聞かされて、逆上した者に冷静な判断力を望むのも無理だ。その場の空気次第では、大牙が実力で排除される可能性だとてないとはかぎらない。それを、子華は未然に防いでくれたことになる。 「私はなにも、大牙どのに個人的に含むところは何もないのです。ただ、〈容〉のためにならないことは反対いたしますが——。騒ぎは、なるべく起こしたくはありません。大牙どのが是であろうと非であろうと、今、〈容〉に騒動が起きて得をするのは、〈征〉ばかりですから」  つまり、一時、目をつむってくれたというわけだ。 「ですが、早晩、知れることです。今でも、それとなく察している者は多いと思います。むやみに隠すよりは、早いうちに公にした方がよいかと思いますが——いや、これは、よけいなさしで口かもしれないが」 「いえ、おっしゃるとおりだと思います」  どちらにしても、大牙との関係を切る気は、無影にはないはずだ。一国のみで正面きって、〈征〉と戦うような愚は、絶対におかすような漢ではない。〈容〉をおとりに使うか盾に利用するかはわからないが、徹底的に利用する気でいるはずだ。だとしたら——。  盟約を正式に結べばそれでよし。大牙が拒否、もしくは無視をした場合、〈容〉の支配権を得るために大牙が弄《ろう》した手口を公表するにちがいない。会見を、大牙ではなく子華に申しこんだのは、断ればどうなるかみていろという脅しだと、淑夜は判断した。  どちらにせよ、かくし事を持つということは、弱みをにぎられることだ。逆にだれもが知るところとなれば、脅すことは不可能となる。  故に、 「盟約を結ぶについては、とにかく、内々に〈乾《けん》〉と〈貂《ちょう》〉との承認だけでも得ておくつもりでいます。その件について、子華どのにもご協力いただきたいのです。いかがでしょうか」 「それは、たやすいこと。まず、〈乾〉の夏夷《かい》さまを説きつけられれば、あとは皆、〈乾〉伯に従うでしょうから。では、大牙どのはもう、無影に会いにいかれるつもりになっておられるのですか」 「そのようです」 「会見の場所と日時は」 「まだ」  これから使者を送り、双方で何度も検討を重ねることになる。 「ですが、心づもりはしています。むこうも私が行くといえば、どこでも文句はいわないでしょう」 「御身《おんみ》も、同行するおつもりか!」 「はい」  平静に答えたつもりだったが、わずかに声がうわずった。この決心は、まだ大牙にも伝えていない。言えば、大反対されるに決まっている。 「どれほど危険なことか、承知の上——とは、訊きますまい。だが、何故かと、尋ねてもよろしいか」 「かくすようなことではありませんから。ただ、〈容〉や、他の諸国に不利な条件にならないように留意しなければなりませんし。身分や才能の点からいえば、もっとふさわしい方がおいでのことはわかっていますが、彼の——無影の思惑を推量できるのは、たぶん——」  自分ひとりだ、というのは、自負ではない。もっと苦い、後悔だ。 「だとすれば、よけいにここは、危険は避けるべきではないですか。先々のこともある。ここで、御身にもしものことがあっては、大牙どのも困られるでしょう」  きっとその時、淑夜は奇妙な表情をしていたにちがいない。 「大牙さまが、先の〈容〉伯にとってかわったからくり——野狗という密使が、お話ししてしまったとうかがいましたが」 「聞きました」 「では、私が〈容〉伯をあざむくような真似をしたことも、もうご存知なのでしょう。なのに、心配してくださるんですか」 「——子明《しめい》どのには気の毒だが」  先の国主を、子華は名で呼んだ。 「あのご仁《じん》が国主では、〈容〉はあと数年も保《も》たないと思っていました。かといって、他に国を託するべき人もなく、行く末を案じていました。そう思っていたのは、私ひとりではなかった。いや——推量ではなく、たしかに私と語らっていた者が複数いたのです。失礼だが、その者らの支持がなければ、いかに大牙どのや御身が策を弄されても、手も足もでなかったはず」  淑夜は無言でうなずく。  たしかに、子華のいうとおり、夏子明に不満や不安を抱いている者がいたからこそ、彼をひきずりおろすことも可能だった。夏子明が申しぶんのない君主であったなら、淑夜はもっと直接的で卑劣きわまりない手を使うしかなかったかもしれない。  淑夜がうなずいたのには、もうひとつの意味があった。子華のことばは裏をかえせば、子華たちの期待、また願望を無視するようなことがあれば、すぐに大牙ら一党をまとめて〈容〉から放り出すぞ——そういう意味がこめられているのである。 「わかっています」 「私たちは、大牙どのを信頼しているからこそ、この国を預ける気にもなったのです。〈容〉の国主が弼《ひつ》さまでありさえすれば、あとはどうなとご自由にしていただいてよい」  裏返せば、夏弼から〈容〉を奪うようなことをした場合、何が起きるかわからないということだ。 「その点は、ご懸念にはおよばないかと思います」  淑夜は、きっぱりと答えることができた。  大牙に〈容〉を奪う気はない。あくまで、彼が考えているのは、〈奎〉の復興であり、〈魁〉がこの〈坤〉の大地を支配していた、あの時代をとりもどすことだ。その中には当然、〈奎〉を支え、守る国のひとつとして、〈容〉や〈乾〉の存在もはいっている。だが——。  淑夜には、この件に関しては別の屈託があった。ふと、彼の明るい表情を過《よぎ》った、雲の影のようなものを、夏子華はどう見ただろう。 「〈容〉を守ってくださるかぎり、私たちも大牙どのには協力を惜しまないつもりですが——大牙どのには、淑夜どの、御身が必要なはず。耿無影の命をねらったこともある御身がその目前にあらわれては、御身も無事ではすむまいし、盟約そのものが破れはしませんか」 「その点は、心配ないと思います。私がここにいることは、最初からわかった上での申し入れなのですから」 「さしで口かもしれないが、もしも——もしもよければ、私が代わってさしあげてもよいのですが。才の点では御身に劣るかもしれないが、〈容〉を守るためというなら、全知全能をあげる所存《しょぞん》」  子華が、本心から自分の身を案じてくれているのは、感じられた。利害とは別に、人としての厚意なのだとわかったから、かえって淑夜は気負うことなく首を横に振ることができた。 「子華どのには、万一の時に〈容〉を守っていただかなくては。でなければ、大牙さまが〈容〉を乗っ取ってしまうかもしれませんよ」  きわどい冗談だったが、淑夜にしてはめずらしいこのせりふに、子華はここではじめて目で笑った。あいもかわらず錆びた笑顔だったが、悪い気はしなかった。 「心配ありません。段大牙の臣、正式の随行として堂々と行けば、安全なはずです」  相手の随従を殺してしまっては、盟約もなにもあったものではない。そして、無影は小事にとらわれて大局が見えなくなるような漢ではない。それは、信じてもいい。 「しかし、腕ずくで来られてはひとたまりもないでしょう。たしかに、淑夜どのは棒術にたくみで馬も戎族なみに乗りこなす。下手な兵士より、よほど強いとか。だが、失礼だが、その脚ではいざという時には——。何かあってからでは、遅い」 「こんな時に怯《お》じていては、いくら強くても兵士はついてきてくれませんよ。腕ずくが心配ならば、それを封じればいい」 「——どうやって」 「まさか、無影本人が槍や剣を持って、斬りかかってはこないでしょう。あとは、随行の人間ですが——」 「会盟《かいめい》となれば、一軍(約一万二千〜一万五千)は無理としても、千単位の兵を率いていくのが常識——」 「それは、〈魁〉が存在していたころの常識ですよ」  相手の反応を見ながら、淑夜は告げた。怒りだしたならそれでもいいと思ったが、子華は、なにやら二、三度まばたきをくりかえしたのみで、反論はしなかった。 「会盟といっても、威を示すべき相手もいません。むやみに人を集めて、無駄に〈征〉の気を逆なでしてもしかたがありませんし、費用もかかるばかりで意味はありません」 「しかし、こちらはそれでよいとしても、〈衛〉の側が納得しますか」 「承知させます」  いいきって、淑夜は笑った。 「だから、心配ありません。双方、せいぜい十数人ずつの随従で行って、会って、無事にもどってきてみせますよ。大変なのは、その後のこと。きっと戦になりますから、その準備を子華どのにお願いしておきたいのです。どうか、よろしく——」 「——義京《ぎきょう》?」  切れ長の眼をあげてつぶやいたのは、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]連姫《しんれんき》の白い横顔だった。  ここ数日、気分がすぐれないようすで、ひとことも口をきこうとしなかった彼女が、ようやく口にしたひとことだった。無影にとっては千金にも値するせりふだったが、それも向けられた視線の冷たさの前には、かき消された。 「あのようなところに、まだ人が住んでいるのでございますか?」  国が滅んでも、逃げるところのない者もいる。往時にくらべれば微々たるものだが、城邑としての機能までは失ったわけではない。占拠した〈征〉の軍の一部が駐屯しているとの話も、その数をも、無影が手にとるように知っているのは、尤家の暁華が逐一報告してくれているからだ。  ちなみに、義京の尤家は乱の際に焼失し、本拠はこの〈衛〉の瀘丘《ろきゅう》に移ったが、以前仕えていた者たちの一部がちいさな商売を再開しているという。 「人がいるから、行くのだ」  耿無影は、左頬の傷あとを我知らずなぞりながら、答えた。 「では、いっておいでなさいませ」  一礼して、無影のかたわらをすりぬけようとした。  何が気にくわないのか、口をきかなかったここ数日にくらべれば、おざなりなあいさつをするだけでもましというものだが、それでごまかされるような無影ではない。 「何を、他人事《ひとごと》のようなことを」  流れるような動作ひとつで、連姫の腕をとらえ、無影はわざとせせら笑ってみせた。 「おまえも、行くのだぞ」 「わたくしも——?」 「何を、いまさら驚いている」  どこに行くのにも彼女を同行させるのは、無影の習慣——もはや、強迫観念のようなものだった。最初は、留守をねらって人質にでもとられたら、という懸念からはじまったことだった。今、無影の支配が行きわたった〈衛〉にそんな思いきったことを考える者は、皆無といってよいが、それでも彼はこの美貌を身辺から離すことができなかった。  ここ数年は戦もなく、春に軍を動かした時も結局、実戦は起きなかったから〈鄒《すう》〉までの小旅行をしたようなものだった。だから、連姫もすっかり、瀘丘にのこる気になっていたものらしい。 「今ごろ、義京に何のご用でございます」 「やっと、訊いたか」  無影がどこへ行こうが、何をしようが、連姫は理由を自分から尋ねようとはしない。それが本心からの無関心なのか、それとも装われたものなのか無影には判別ができない。他のことについては、鋭すぎるほどに勘のよい漢が——と、自嘲することがあるほどだ。 「〈奎〉の——いや、今は〈容〉の、というべきか、段大牙と会う」 「わたくしは、参りませぬ」 「許さぬ」  今まで、異議を唱えること自体がなかった彼女が、何故、急に意志をはっきりと伝える気になったのかまで、無影には推測する余裕がなかったのだ。 「どなたと、どんなお話をなされるのか存じませぬ。国の政など、わたくしにはわかりませぬ。わたくしには、関係のないことでございます。ならば、ごいっしょする必要はございますまい」 「勝手は許さぬといっている」 「義京は今、〈征〉の領土でございましょう。そんなところで〈容〉のお方と会うなど、正気の沙汰とは思えませぬ。兵を率いて〈征〉の地に足を踏み入れて、無事に帰れるとお思いですか」 「帰らぬ方がよいと思っているのではないか」 「思っていたら、いかがなさいます」  白い貌《かお》が、さらに蒼白になった。きゅっとひきむすばれたくちびるだけが、南海の珊瑚《さんご》のような赤になった。  無影は、冷笑で応えた。 「だから、望みどおりにしてやろうといっているのだ。ただし、兵を連れていっては面倒だから、随行は二十人ほどに絞る」 「二十人——?」 「段大牙も、それぐらいしか連れて来ぬと申している。商人の一行のふりをして行けば、だれもとがめる者はない。おまけに、女がひとりぐらい混じっていても、不審には思われぬ」 「そんな、無謀な——」  ろくな護衛もなしに、一国の主が、いくら手薄とはいえ、現在敵対している国内に足をふみいれるのである。だが、 「おもしろい趣向ではないか。段大牙も、なかなか洒落《しゃれ》たことをいってよこしたものだ。しかも——これがどうやら、大牙の発案ではないらしい」 「え——?」  珊瑚色のくちびるが、かすかに震えた。 「来るそうだ。大牙の随行のひとりとして」 「もしや——」 「何年ぶりになる。三年、いや、四年になるか」 「淑夜さま」  と、つぶやいたことばは、声にはならなかった。だが、くちびるがたしかに動くのを無影は見た。耳には聞こえなかったにもかかわらず、まるで悲鳴を聞いたような錯覚に無影はとらわれた。 「わたくしは——」 「連れていく」  弱々しくかぶりを振る連姫に、まるで印璽《いんじ》かなにかを押すようにいい渡した。 「行って、この四年の歳月が何だったのか、その目で見るがいい。躬《み》も、楽しみにしている。あれが——淑夜がどんな漢になったか、躬の仇敵にふさわしい人物になりあがったか、しっかりと見せてもらおう——」 [#改ページ]  第三章————————別離、ふたたび      (一)  義京《ぎきょう》は三年前の乱で、宮城をはじめとする主だった建物は、あらかた焼失した。  衷王《ちゅうおう》の崩御とともに、いったんは死んだ城邑《まち》である。  城壁の一部は、乱の時に外から崩されたまま、いまだに修復もなされていない。修復する人も資金も材料も、そして必要もなくなったからである。  内部のものを守るという本来の目的を失ってしまえば、外壁など必要はない。  今の義京には、王宮も卿大夫《けいたいふ》の館も大商人の屋敷も、そこにあるはずの財産もない。都が滅び家を失っても他に行き場所のなかった、ひとにぎりの庶民が肩をよせあい、かろうじて暮らしている邑《むら》にすぎない。  ここが無人の野にもどってしまわなかったのは、彼ら無名の庶民たちの存在の故ともうひとつ、義京が変わらず交通の要地であったからだ。  巨鹿関《ころくかん》から百花谷関《ひゃくかこくかん》の間には、瑶河《ようが》にそって街道がひらけている。河の南北は山脈にさえぎられて、往来は困難である。つまり、もとの〈魁《かい》〉領——それに〈奎《けい》〉領も含めての土地は巨大な回廊となっており、義京はその回廊の中継地の役割を、もともと担《にな》っていたのである。王都でなくなっても、その役割が変わるわけではない。中原が分裂されたとはいえ——いや、分裂したからこそ、人の行き来はかえってはげしくなり、中継地としての意義は大きくなっていた。  ——〈魁〉の滅亡から四年後、秋、無射《ぶえき》(九月)も下旬近くのことである。 「これはまた、ひどく荒れたものだなあ——」  義京の城壁を遠くから臨んで、大牙《たいが》は思わず声をあげた。  ことばとはうらはらに、妙にあけすけに明るい声音に、周囲にいた大半の者がいやな顔をし、ひとりだけがおだやかな微笑をうかべた。 「どうだ、なつかしいか、淑夜《しゅくや》」  屈託などかけらもなさそうな口ぶりが、大牙の本心からのものか韜晦《とうかい》なのかは、聞いただけではわからない。驢《ろ》にひかせた荷車の御者台で、また数人が露骨に非難めいた表情をうかべた。 (不謹慎な——)  という、顔である。  その顔がわからない大牙ではない。承知した上で、それでも彼生来の陽気さを失わないところが、大牙の長所だった。だから、車の荷台で淑夜は微笑《わら》ってうなずいてみせたのだった。  正直、なつかしくないわけでもなかった。  荷車に乗せられて義京のすぐ手前のこの道をたどったのは、四年前の夏のことだったか。もっともあの時は、荷車の上ではなく荷の中に押しこまれ、何度、窒息しそうになったかわからなかったが——。  もちろん、その後もその前も、この道は何度かたどっているし、その時の気分のひとつひとつも、はっきりと思いだせる。たとえば、はじめて義京へ勉学のためにやってきた時の、明るい緊張感。三年前、乱の報を聞いて〈征〉との国境からとってかえしてきた時の焦燥と絶望。  だが、どれが一番かといえば、やはり羅旋とはじめて出会ったあの時の感慨が、もっとも胸にのこっているのだ。今にして思えば、あの時に淑夜はいったん死に、まったく別の人生を生き直すことになったような気がするのだ。  我知らず、感慨にひたってしまった淑夜にむかって、 「会いたい者がいるなら、寄っていってもいいぞ」  大牙は呑気なことをもちかけた。  さすがに、周囲から反対の声があがる。 「主公《との》。物見遊山《ものみゆさん》でまいったのではありませぬぞ」 「堅いことをいうな。おまえたちのためには、帰りに青城《せいじょう》に立ち寄ってやるから」 「そして、〈征〉の兵に捕らえられるのですか」 「捕まえられるものなら、捕まえてみるがいい」  と、大牙は鼻息が荒い。 「満天下にいいふらしてやる。義だの法だのと口にしておきながら、〈征〉の魚支吾《ぎょしご》は大嘘つきだ。親父どのや兄者の墓参りを認めぬ、人倫の敵だとな」  いって、からからと大口を開いて笑うが、実はこれは淑夜の入れ知恵である。 「大軍をひきいての行動ならば、責められる非はこちらにあるでしょうが、たかだか二十人ばかりの一行なら、逆になんとでもいいぬけはできます。だいいち、その方が目立ちません」  随従のあまりの少なさに難色を示した大牙を、淑夜はそういって説得した。  もともと、冒険心のある大牙である。 「隠密裡に義京まで行ってもどってくるには、少数の方が統制もとれるし、臨機応変に動けます」 「——それもそうだ。おもしろそうだな」  隠密裡と、臨機応変ということばに引きずられて、大牙はいっさいを淑夜に任せることにした。  不在の間の〈容〉の| 政 《まつりごと》は、夏子華《かしか》に一任する。これは、子華にも否やはなかった。彼の周旋で、〈乾《けん》〉の夏夷《かい》の内々の支持もとりつけた。大牙の留守に軍を統括するのは、冀小狛《きしょうはく》将軍。これは人選としては妥当だったのだが、冀小狛自身が頑強に反対をした。  少数で行くのは仕方がないとして、自分を置いていくとは何事だ、というわけである。  それを、説得に説得を重ねてようやく、淑夜以外の随従を冀小狛が選ぶことで納得させた。  ただし淑夜も冀小狛に、条件をつけた。身分や腕力よりも、まず若く従順な者をと要請したのである。 「いくら、腕っぷしが強くても、いざという時に腕を恃《たの》んで勝手な行動をとられては、困りますから」  淑夜を若輩者と見て、とかく風下に置きたがる者は、〈容〉の人間ばかりではない。〈奎〉から大牙にしたがってきた人間たちの中には、大牙よりも年長の者も多くいるし、淑夜にかぎらず、年少者の台頭自体を快く思わない者もいるのだ。春の一件にしても、冀小狛は素直に淑夜の働きを認め、それなりの対応をしてくれるようになったが、かえって反発を強めた者もいる。  彼らは、年功序列だけをふりかざしていては自滅するしかない時代だということに、気づかない者たちだ。もしかしたら、気づかないふりをしているのかもしれないが、とにかく、そういう連中と心中する気は淑夜にはなかった。  幸い、冀小狛は淑夜の意図をよく理解してくれた。  淑夜が無影《むえい》と通じているのではないか、そうでなくとも、会見の席で裏切るのではないかと、冀小狛が露ほども疑わないでくれたのはありがたかった。いや、一度、口にはしたのだ。 「そんなことはないと、誰が何を言おうと、儂《わし》は信じておるからな」  そんなことばで、淑夜を送りだしてくれた。  あとは、いかに安全に義京へ至るかだが、淑夜は、裏の商売をする商人たちが使うけもの道を知っていた。尤家《ゆうけ》に身をかくしていたころに、暁華《ぎょうか》がみせてくれた図面から得た知識である。 「なんだ、簡単に来られたじゃないか。こんなことなら、もっと早く帰ってくればよかった」  拍子ぬけした大牙が、ぼやいたぐらいである。もちろん〈容〉の居候になっている状態では、不可能だったのだが、大牙の楽天的な性格から考えるとやりかねなかったと、淑夜は陰で胸をなでおろしたものだ。  とにかく、彼らは義京を臨む場所に立っていた。 「さ、これから、どうする」 「〈奎〉伯と士羽《しう》さまの墓参《ぼさん》をなさるんじゃ、なかったんですか」 「——本気だったのか」  大牙は、目を丸くした。 「本気じゃなかったんですか。今日は無理としても、私はとにかく時間があれば行ってみるつもりでいましたが」 「——ここからだと、少し、距離はあるか」  義京の乱のおりに前後して亡くなった大牙の父と次兄は、義京城外の丘の上に、あわただしく埋葬したままだ。当時、背後から〈征〉軍に追われ一刻を争う状況では、丁重な葬儀を行う時間も、遺骸を運ぶ余裕もなかったからだ。それが淑夜の胸にはずっと、気がかりなままになっている。おそらく、大牙にとってもそうだろう。  万一、〈征〉軍に荒らされることをおそれて、墓標ひとつたてたわけでないが、場所ははっきりと覚えている。今からでも、行こうと思えばいけないこともないが——。 「いや、あとにしよう」  その丘の方向に遠い眼を投げかけていた大牙が、先に首を横にふった。 「今は、本来の用事をすませる方が先だ。それから後で参っても遅くはないし——ことによっては、寄らずに帰ることになるだろう。一日でも早く〈容〉に戻る必要がある。それに、ここを取りもどせば、墓参りなど毎日でもできる」 「苳児《とうじ》さまには、申しわけないですが」  段士羽のただひとりの忘れ形見の少女の名に、大牙も少し苦い笑い方をしてうなずいた。 「恨み言は、俺がひきうけてやる。さ、行くか」  その合図で、一行は動きだす。ただし、義京の方向ではない。  いくら大牙たちでも、〈征〉の兵にどうみとがめられるかわからない危険を冒すつもりはなかった。  義京から見て、ほぼ北東の方向。十里(一里=四〇五メートル)ほどの郊外に、〈魁〉王家の離宮がある——いや、あったというべきだろうか。  寿夢宮《じゅぼうきゅう》という美しい名の楼閣《ろうかく》は、三年前、太宰子懐《たいさいしかい》の手の者によって衷王が拉致《らち》されたあと、放置されたままになっている。いや、手つかずのままならばまだよかったのだが、太宰子懐の意で内部の調度や値打ちのありそうな品は、あらかた持ち去られてしまった。その品の大半は義京の乱の炎の中に失われたし、一部は義京に運ばれる途中で行方不明となった。  かろうじて残った物は、〈征〉の魚支吾の命令で徹底した捜索をうけて、戦利品として〈征〉へと運ばれていった。建物の形が残ったのは、奇跡に近い。いったんは、魚支吾は不要になった寿夢宮に火をかけようとさえしたのだ。  彼としては、〈魁〉の痕跡を地上から消してしまいたかったのかもしれない。  それでは太宰子懐とおなじ悪逆《あくぎゃく》の徒となってしまうという反対の声で、ようやく思いとどまったという。だが、いっそ燃え尽きていた方がよかったかもしれないと、淑夜は思った。  寿夢宮は、その名のとおり美しい建物だった。ここへ足を踏みいれたのは二回だけ、それも出入りは夜陰にまぎれ、荷車の荷に擬装《ぎそう》してのあわただしいものだった。だから、ゆっくりとその外観を鑑賞したことはない。  だが、内部の細工——たとえば、回廊の欄《てすり》に施された繊細な彫刻や、敷き詰められた磚《かわら》の微妙な模様には、たしかに最高の技術と感性がこめられていた。  主《あるじ》たる衷王の鬱屈《うっくつ》した心情に染まって、空虚な印象のする建物だった。頽廃《たいはい》的ですらあった。今から思えば、あれは滅びの美だったのかもしれないが、それでも美しかったという記憶は残っている。  それが、 「これでは、狐狸《こり》が出てきてもおかしくないな」  大牙が、またぼやいた。  まだ陽《ひ》が落ちきったわけでもないのに、建物の内部に入るには勇気が必要だった。灯火の設備などあるわけがないから、暗いのはともかくとして、屋根の一部は崩れ落ち、床には土砂がうすく堆積し、草まで生えてどこからどこまでが院子《にわ》か判別すらできないところもある。  実際に、獣の足跡が残っている場所もあった。 「いや、このあたりに狼《おおかみ》はいないはずだ。犬か、さっきもいった狐だろう」  と、大牙が調べていった。 「どちらにしても、火を焚《た》いていれば寄ってはこないから、安心しろ」  危険は、それだけではない。  下手に歩けば、床を踏みぬく。院子も、どこに古井戸があるかわからない。その上、 「野宿には慣れているからいいとして、化け物や鬼《き》(幽霊)にでくわすのだけはいやだ」  大牙が、いやなことを陽気な口調でいいだした。 「そんなことを、大声でいわないでください。皆の士気にかかわります」  安全の確保と余人の姿がないか、念のためにふたりひと組で手分けして調べている最中だったから、ほかに聞く者はなく、淑夜はほっと胸をなでおろした。  随従は屈強な若者たちばかりだが、それだけに動揺しやすいことを淑夜は知っている。迷信深い者たちを、むやみに怯《おび》えさせてもなにもならない。 「そんなことをいって、おまえはどうだ。平気な顔をしているが、内心——ということもあるぞ」 「私には当面、もっと気がかりなことがありますからね。それに、衷王陛下の幽鬼なら、お目にかかりたいぐらいです」 「おい」 「私はどなたかとちがって、恨まれるようなことはしていませんから」 「それでは、まるで俺が陛下に何か悪さをしたようじゃないか」  憤然となってみせた大牙だが、缺《か》けた磚を爪先で蹴りつけながら、 「そうだな。親父どのや兄者の幽鬼なら、俺も会ってみたい」  つぶやいた。 「——ここらあたりか、陛下の居間だったのは」  朽ちかけた階段を、炬《たいまつ》をかざしてのぼるのはひと苦労だった。特に、淑夜の脚にはたいへんな負担だった。淑夜が炬を持ち、大牙がその腕をとらえてひっぱりあげるかっこうで離宮の中心となる高楼の最上階までのぼりきったふたりは、一室を感慨深そうにのぞきこんだ。  ここも塵埃《じんあい》にまみれ、太い梁《はり》を飾るのは蜘蛛の巣ばかりだが、 「そうです。ここです」  羅旋に連れられ、衷王に会ったのはこの部屋だった。大牙と引き会わされたのも、ここではなかったか。初めて会った時、衷王はここで画帛《きぬ》を広げていた。幾重もの薄紗の帳幕《とばり》と宮女たちに囲まれ、かたわらの玉製の燈檠《とうけい》がまばゆい光をはなっていた。  今でも、衷王が座っていた場所を示すことができる。そして、紗の帳幕の陰から少女の白い貌《かお》が現れたところも、その時の情景もはっきりと——。 「おい、淑夜」  声をかけられて、淑夜はほんとうに飛びあがった。 「何を考えていた」 「思いだしていたんですよ」 「何を」 「何をといって、その——」  めずらしく口ごもった彼を見て、大牙が片頬でにやりと笑ってみせたものだ。 「揺珠《ようしゅ》どののことか」 「大牙さま!」 「どうやら、図星らしい」 「ちがいます」 「かくすな。俺もおなじだ」  にやりと笑って、大牙は回廊に出た。一歩一歩、安全な場所を選び、欄干《らんかん》の強度を確かめてから淑夜にむかって手招きをしてみせる。 「元気だろうか。兄君を亡くしたというが、つらい思いをしてはいないだろうか。聞けば、〈琅〉の内乱に巻きこまれて戦場に姿をみせたという噂まである。無理をしてはいないか——そして、どんな娘になったのか。そんなことばかり、考えてしまう」 「羅旋がそばについているそうですよ」 「よけいに、心配になってきた」  欄干は、体重をかけてしまわなければ、まだ十分にその役目を果たしているようだった。施された彩色はとっくの昔に剥《は》げ落ちているが、それが根太《ねだ》まで腐るのを防いでいたらしい。  回廊からの眺めは、茫漠《ぼうばく》たるものだった。  もともと、風光明媚な場所を選んで建てた離宮ではない。都を守る小塞《しょうさい》を、改造・改築したものだから、外はただ荒野が広がり遠くには山の稜線がかすむばかりだ。ただ、 「遠くまで、よく見える。望楼としては、絶好の建物だな」  大牙は無邪気なはしゃぎ方をした。  淑夜も、そろそろとそのかたわらに立つ。炬は、放置されていた錆《さび》だらけの火盆の中にいったん、休ませる。  そういえば、ここから外を眺めたことも、以前にはなかったが、おそらくこの眺めだけは三年前から変わっていないはずだ。衷王が、そして揺珠が毎日、どんな想いでこの景色を見たのか——想いは、どうしてもそのことになってしまう。 「眺めがいい上に、ここまでのぼってくる物好きはめったにいるまい。聞かれてまずい話も、ここでならできる」 「——なにか、私にご不審でもありますか?」  淑夜の全身が、一気に緊張した。では、大牙は自分を信用していなかったのか。ここで、無影に彼を売り渡すことを心配していたのだろうか。だが、それならのこのことここまで来たりはしないはずだ——。 「俺に訊くのか——いや、今度の会見についておまえを疑っているんじゃない。それだけは、心配しなくていい。ただ、ここのところ、どうもようすが変だ。おとなしすぎる」 「緊張しているんですよ」 「耿《こう》無影と会う緊張とは、また別物だと、俺は見たがな。違うか?」 「どう、違います?」  陽気でおおらかなように見えて、大牙が案外、鋭いことは承知していたつもりだった。〈奎〉伯の三男坊に生まれながら、年長の兄たちに世嗣《せいし》の座をゆずられたほどの漢《おとこ》である。ただの、卿大夫の公子とは性根がちがったからこそ、仕える気にもなったのだ。自分でも意識していなかった変化を見破られたのは悔しいが、それに無関心なほど愚鈍《ぐどん》な主君でもまた、困る。 「無影のことを考えている時、おまえはどことなくこわばっている。奴の話に言及する時と同じだ。昔——初めて会った時ほどではないにしろ、まだ、なんとなく声も態度も堅くなる」 「そう——ですか?」 「とぼけるな。自覚しているんだろうが。ところが、ここのところのおまえはそうじゃない。ぼうっと、遠くを見ているかと思うと、不安そうな——いや、不満そうな表情をする。憂い顔といっていいのか、反抗的な顔といった方がいいのか」 「——まったく、かないませんね」 「三年ものあいだ、見ていれば、わかるさ。ここなら、俺の他にはだれも聞いている心配がない。俺は誰にもしゃべらんから、安心して吐け」  顔は真顔だが、口調はふざけていた。淑夜はそれに、ほっと安堵の息をついた。 「まさか、この機会を作るために、今度の会見の段取りを承知してくださったんじゃないでしょうね」 「まあ、一石二鳥はねらったな。冀将軍の手前、〈容〉では密談ができなくなったからな。とにかく、話してみろ。俺の、何が不満だ」 「大牙さまへの不満ではないんですよ」 「では、なんだ」 「うまく、いえないのですが——このままでいいのかと」 「いけないのか。俺はおまえのいうとおりに〈容〉を——」 「だから、その件ではないんです。いえ、やはりそうかもしれない」 「だから、なんだ」 「国の形、というものを考えていたんですよ」 「国の、かたち?」 「このままで、〈奎〉を再興させていいのかどうか」 「なにを、いまさら」 「そのいまさら、なんです」 「だから、何だ」 「〈奎〉という国をとりもどして、かつての〈魁〉とおなじような国を造って、どういう意味があるのか」 「〈坤《こん》〉を——中原《ちゅうげん》を、再統一してはいかんというのか」 「再統一は必要です、いえ、必然です。私たちがここで手をこまねいていたとしても、誰かがやるでしょう。ですが、かつての〈魁〉とおなじ形態の国を——各国にそれぞれ国主がいて、その上に王が立つというかたち、卿大夫が| 政 《まつりごと》を担当し、庶民はただ働いて租税《そぜい》を納めるだけというかたちの国を造ったとします。それでは、また百年か二百年もしたら、やはり〈魁〉とおなじ欠陥が出、おなじように滅亡するとは思いませんか。一度失敗した戦を、もう一度くりかえすのは愚だと思いませんか」  一気に、ひと息にはきだした語勢が、淑夜の熟考と焦燥をあらわしていた。知らず、大牙に詰めよるような口調と視線になった。  大牙は、暮れなずみはじめた天をふり仰いで、嘆息した。 「——また、とんでもないことをいいだしてくれたなあ」 「申しわけありません」 「謝ることはない。言えといったのは、俺だ。——そうだな、久しぶりに士羽《しう》兄者に説教をくらっているような気分になった」 「申しわけ——」 「だから、それはいい。そうか、そんなことを考えていたか」  たしかに、これはだれにもいえぬなと笑いながら、大牙はゆっくりと床に腰をおろした。淑夜にも、手真似で倣《なら》うように指示を出す。  じっくりと話を聞くという、意思表示である。怒りだしもせず、とにかく聞くだけ聞くという態度が淑夜にとってはありがたかった。  それを口にすると、 「莫迦《ばか》。冀小狛に貸してやりはしたが、おまえが俺の謀士《ぼうし》であることに変わりはない」  そういって、笑った。 「しかしまた、どうして急にそんなことを考えるようになった。ついこの間まで、俺と口をそろえていたくせに」 「〈奎〉の土地をとりもどすのは、いいんです。ですが——」 「気が変わったか?」  あいかわらず、行儀悪く左脚を投げ出して座る淑夜の顔を目をすがめてながめてきた。 「状況の方が変わったんです」  まるで口ごたえのような口調に、大牙は反射的に笑いだしたが、淑夜は笑うどころではない。 「真面目に聞いてください」 「聞いているさ。それで、俺にどうしろという」 「どうにもできないから、黙っていたんですよ」 「ずいぶんな言い方だな」 「実際、無理です。〈容〉や〈乾《けん》〉がこのままでは」 「つまり、連中が滅ばないかぎり、〈奎〉を再興しても意味がないと?」 「——仮に、〈征〉から〈奎〉をとりもどしたとします。〈征〉と〈衛〉を排除するか降伏させたとして——〈乾〉や〈貂《ちょう》〉、北方の諸国はそのまま、手つかずでしょう。封地が多少、変わるかもしれないけれど、諸国の内政にまで王の権限が至ることはない。それは〈衛〉や〈征〉についても——だれが、国主になるにしても、おなじことでしょう」 「ふむ——」 「なぜ、〈魁〉は滅んだと思います?」 「〈魁〉の国力を凌駕《りょうが》する国が現れたからだ」 「それが、理由のすべてではありませんが。ですが、このままでは、たとえ〈奎〉が〈坤〉の地を再統一しても、かならずそれをうわまわる国があらわれます。十年、二十年後ではなくとも、百年後には。各国が力をつけ、王はその間で利用される存在となってしまう」 「では、どうしたらそれを防げる」 「たとえば——たとえばの話ですよ。王の権限が諸国の内部まで浸透するような状況ができれば」 「もっと、わかりやすく説明しろ」 「つまり、国を治める者の任免《にんめん》を、王自身がやれば——」 「今まででも、そうだったぞ。諸侯を各国に封じたのは、〈魁〉王だった」 「でも、一度封じたら、あとは世襲《せしゅう》だったでしょう」 「——世襲がいけないのなら、俺が〈奎〉を継ぐのもいけないということになるぞ」  さすがに、憮然《ぶぜん》とした表情で大牙は腕を組んだ。話の的はかろうじて射ているが、実は半分も理解していないような顔つきである。だが、淑夜はいらだつ気にもなれなかった。淑夜自身、自分でも何をいいだしたのか、我ながらそらおそろしく感じだしたところなのだ。  けっして思いつきで口にしているのではない。ここのところ、胸に澱のようにたまっているものを、きちんと言葉にして出し整理してみたら、とんでもない大きさにまでふくれあがってしまったのだ。 「いえ、問題は、各国が王を凌《しの》ぐ力を持つことだったんですから、それをできなくしてしまえば——。たとえば、租税をすべて〈奎〉に対して納めさせ、それをあらためて諸侯に配分するという形なら——」 「うまいやり方だが、〈容〉や〈乾〉がそれに同調すると思うか」 「思いません。だから、無理だといったんです」 「——そうだなあ。うまいというより、せこい手だものなあ、それは」 「政も戦も、効き目のある手はたいてい、こすっからいものですよ」 「士羽兄者のいいそうなせりふだ」 「誉めことばととって、いいですか」 「誉めたんだ。口惜しいがな」  告げて、大牙はきたない床にごろりと横になった。 「兄者が生きていたら——いや、おなじようなことをいっただろうな、たぶん」  士羽が世継ぎの地位を望めば、父・〈奎〉伯も家臣も領民も、こぞって歓迎しただろう。出自も人柄も才能も、申し分のない人物だった。それを、あっさりと年齢《とし》の離れた異母弟にゆずったのは、大牙に期待したのと同時に、世襲の封国制に限界を見ていたからではなかろうか。  淑夜も、それに思いあたったからこそ、胸に屈託をかかえることになった。 「ですが、今の状態ではどうにもできないのです。〈容〉を——ほかの諸国もですが、裏切るわけにはいきません」  子華に約束したからではない。  それでは、国が因《よ》るべき信義というものが成り立たなくなるからだ。国を失った大牙を、どういう思惑があるにしろ受け入れ、保護してくれた〈容〉を滅ぼすような真似をして、支持が得られるとは思えない。諸侯の賛意などどうでもいいが、民がついてこなくなる。 「暴力で手に入れたものは暴力で、謀略で得たものは謀略で滅びます。太宰子懐が、いい例でした」  きれいごとばかりで世の中が渡れるほど甘くないことを、淑夜は身をもって学んできた。人を殺さねば、自分が死ぬしかない場合もあることも知っているつもりだ。それでも、非道なことは極力、したくない。  春、〈容〉伯を欺いた件も、やろうと思えばもっと悪辣な手があったかもしれない。だが、淑夜はそこまで踏み切れなかった。  この甘さが、自身の限界だと淑夜は自覚しはじめている。 「——魚支吾と耿無影は、無事に生きのびているぞ」 「だからこそ、ふたりを覇者にはしたくないでしょう」 「——八方ふさがりか」 「ひとつだけ——」  ためらいながらも、淑夜は声に出した。 「なにか、方法があるか」  大牙は期待薄といった調子で、起き上がりもしない。 「これは、思いつきですが。〈容〉の国のしくみ全体を、今のうちに作り変えてしまうという手が」 「作り変える?」 「たとえば、才能のある者を、身分の如何《いかん》によらず登用する途《みち》が開ければ、事情も少し変わってくると思うんですが——」 「どう、変わる」 「——それは」 「気の毒だが、夢物語だな」  ゆっくりと上体を起こしながら、大牙は告げた。 「言いたいこともその筋道も、行きつく先もなんとなく、俺にも見える。できないことはないかもしれない。それこそ、天地がひっくりかえるような改革だが、やりおおせられたら、まったく新しい世の中ができるだろうな。——だが、時間がかかりすぎる」 「時間は問題ではないでしょう」 「ところが、この際は問題だ。特に、どこかの誰かが考えていそうなこととなればな」 「あ——」  大牙がたちあがったので、見上げるかたちになった。大牙はさらに爪先立って、なにか高いところを望むような仕草をみせた。どうやら、梁の上をさぐっているらしい。 「兄者の考えそうなこと——ということは、ほかの人間が考えついてもおかしくないことだ。現に、おまえがそこまで考えた。魚支吾は長泉《ちょうせん》の野の新都《しんと》に太学《たいがく》を設置している。案外、おなじことを思いついての結果じゃないか。奴なら、実行に移すのも早いだろうしな。俺たちは、今の状況の中でなんとかやるしかない——淑夜」  と、最後の声だけ、調子が変わった。 「おまえ、見えるか——?」  と、上を指さす。 「私より大牙さまの方が、目はいいでしょう。何ですか?」  欄干につかまりながら、彼もたちあがり暗い頭上を透かした。  ちぎられたか自然に朽ちたか、紗の帳幕の断片が梁からいくつも下がっていた。最初は、大牙がそれを示しているのかと思った。 「炬を持ってきて、照らしてみましょうか」 「それでは、影が濃くなるだけだ。おまえ、肩を——ああ、俺が貸した方がよさそうだな」  有無をいう暇もなく、わけがわからないままに、淑夜は大牙の肩にかつぎあげられ、手の先で埃《ほこり》と蜘蛛《くも》の巣だらけの梁の上をさぐる羽目になった。 「軽いな、食っているのか」 「食べてますよ。いったい、何を——」  声が途切れた。 「あったか!」 「これは——」  淑夜の指に触れたのは、薄く大きな帛布《きぬ》を巻いたものだった。  封じ目には蝋《ろう》をひとかたまり、押しつけてある。ふつう、文書などは封泥といって特殊な泥で封じ、その上から印を押して綴《と》じる。これで、余人《よじん》が盗み見ることも防ぐのである。封蝋は、用途はおなじだが、泥に比べて段ちがいに高価で、おいそれと使えるものではない。  ていねいに細く巻いたものといい、場所といい、偶然に在《あ》ったものではない。あきらかに意図をもって隠されたものだ。そして、封蝋を使う者といえば、寿夢宮の中でもかぎられる。 「——画布《がふ》?」 「衷王陛下のものだ、おそらく」  蝋に印はなかったが、大牙が断定した。蝋も、大牙がはがした。封を解かれたとたん、黄色く変色した帛《きぬ》はするりとほどけた。 「——揺珠どの」  嘆息のような声は、どちらの口からこぼれだしたものか、判別がつかなかった。  淑夜には、見おぼえのある画《え》だった。たしかに三年前、衷王が目の前で描いていた画だ。少女のまとっている深衣《しんい》の模様に、記憶があった。画業が唯一の取り柄であり、なぐさめであった老王の、おそらく最後の画だ。  虫も食わず、肝心の画の部分は布地も黄変せず、淡い彩色すらさほど褪《あ》せていないようだ。  帛布の上の少女の姿が、不安定な炬の火に照らされてゆらいだ。幼い、弱々しい笑顔が、まるで生きて息づいているように見えた。 「どうして、こんなところに」 「陛下自身が隠されたのだろうな」  証拠はないが、おそらくそうだろう。しかも、太宰子懐にここから拉致される、ずっと以前に。  調度まで持っていかれる混乱の中で、こんなものを隠す余裕はなかったはずだ。そして、揺珠の姿を残しておきたいと願うような者は、この寿夢宮にただひとり。 「『窈窕《ようちょう》たる淑女、君子の好逑《こうきゅう》』か——」  古い歌謡の一節を、大牙がちいさく口ずさんだ。 「まったくなあ。うわさをしたら、こんなものが出てくるんだからなあ」  衷王の事にはわざと触れずに、大牙は嘆息した。 「——どうします、この画」  淑夜も、それだけをたずねた。 「俺たちが持っていっても、陛下が恨みに思われることはあるまい。いつか玉公主自身の手に渡せれば、陛下をお慰めすることにもなると思う」 「お渡しできるでしょうか」 「まあ、縁があればの話だな。それまで、淑夜、おまえに預ける。大事に持ってかえってくれ」  黙ってふたたび巻きとる淑夜の手の中で、少女の笑顔がまた、ゆらいだように見えた。      (二) 「見えました——!」  翌日。  望楼の上からの、若い兵士の報告に淑夜は瞬間、身体中をこわばらせた。  大牙は、それに知らぬふりをして、 「見えたではわからん、どの方向から、何が見えたかを報告しろ!」  負けじとばかりの大声を、怒鳴りかえした。  なにしろ戦場の経験も浅い、若者たちである。いい機会だからと、大牙が口やかましく教えているのである。 「そのぅ——義京《ぎきょう》の方角からです。旗をたてた一団が見えます」 「だから、何の旗だ。敵か味方か! 数をいえ!」 「『尤《ゆう》』と書いてありますが——」  降ってきた返答に、大牙と淑夜とが同時に、つぶやいた。 「暁華《ぎょうか》どのか」 「尤夫人」 「数は——おおよそ、三十名から五十名ぐらい! うち、屋根のついた車が一台、見えます!」 「なら、まちがいない」  と、大牙がつぶやいた。 「なるほど、尤家に関係のある一行なら、たとえ正体がばれたところで、〈征〉の兵卒|風情《ふぜい》に手はだせない。義京に滞在してもおかしくないし、安全だ。——うまいことを考えやがったな」  ちなみに、大牙たちはここまでほとんど野宿で通してきた。途上《とじょう》、小邑《しょうゆう》に泊まれないこともなかったのだが、人目につくことは極力避けたかったのだ。大牙も淑夜も、他の者も皆、野宿など苦にはならないが、それでも秋も深まった現在、夜明けなどはひどく冷えこむ。  昨夜は寿夢宮の一角に、ようやく屋根のあるねぐらを確保したが、結局、火がなければどうにもならず、建物から離れた場所で燎《かがりび》を焚《た》いてしのいだ。それが、大牙には一番腹だたしいらしい。  淑夜の思考は、少しちがう。 「昔、私をかくまったことが、尾をひいてるんじゃないでしょうか」  尤夫人に迷惑をかけたのなら申しわけないと気にする淑夜を、笑いとばした大牙は正しかった。 「尾をひいていたとしても、暁華どののことだ。しっかり、この分の報酬はとりたてているだろうさ。さ、行くぞ」  建物の中は暗く、初対面には不向きと判断し、大牙は高楼の前の院子《にわ》を清めさせた。むろん、土の上に筵《えん》などを敷くわけにもいかず、座といったものは特に設けておかないことにした。  要するに、たがいに話ができればいいのだ。万が一の事態には、すぐに行動に移れるような状態なら、なおいい。 「私は——すくなくとも、最初は遠慮した方が、よくはありませんか」  うながされて、淑夜はしりごみしたが、 「何を、いまごろになっていっている。おまえが同席しないなら、俺はたった今から帰るぞ。だいたい、おまえが耿無影と決着をつける、絶好の機会だと思ったから、この話にのってやったんだ。ここでなんとかしなければ、おまえは一生、賞金首だぞ」 「私のために、この話にのってくださったというんじゃないでしょうね」  弱い苦笑をうかべると、 「おまえのため、もある」  大牙は正直である。 「一番の理由は、会見場所がここだということだった。〈征〉の支配地にはいって、密談をやって無事にもどれたら、魚支吾をだしぬいてやれたことになる。こんなおもしろいことがあるものか」  しれっと答えられて、観念した。  大牙の左脇、少し控える位置に淑夜は立った。いつもの戎族《じゅうぞく》風の衣服ではなく、さすがに黒い寛衣《かんい》をまとっている。少し離れた背後——ふつうの話し声なら届かないあたりに、十人の兵士がたむろする。あとの十人は、望楼などに配置した。  正面の門から、がらがらという音がはいってきた。車の姿は、淑夜たちのところからは見えない。道案内の兵士は出してあったから、ただ待っていればよかった。  人の気配が、回廊をゆっくりとまわってきたのは、それからまもなくのことである。  まず、目にとびこんできたのは、あざやかな色彩だった。 「お久しゅうございます、大牙さま。それに淑夜さま。ご機嫌、いかがでございます?」 「——暁華どのではないか」  侍女と小者《こもの》を従えて、嫣然《えんぜん》と笑っているのは、たしかに尤家の女当主である。  さすがの大牙も、おどろきを隠せなかった。旗を見た時にすでに尤家の関与《かんよ》は承知していたが、〈衛〉に移っていった尤暁華が義京にもどってきていたとは予想だにしていなかった。  だいいち、耿無影がやってくると思って身構えているところに、この人をくったあいさつだ。 「何をしにきた」  間のぬけた質問が出たのも、無理はない。 「ま、ごあいさつですこと。三年ぶりにお目にかかって、最初のおことばがそれですか」  二十代なかばのはずだが、笑ったところは大牙よりも歳下に見える。それでいて、決して嫌味にも不自然にも見えないところが、この婦人の不思議なところだった。 「大牙さまと無影さま、おふたりがこんな廃墟でお会いになることになったとうかがって、心配してまいりましたのよ。どうせ、調度も食事も——下手をすれば水の一杯もないところですのよ。そんなところでお話し合いをなさっても、よい知恵がでるわけがないじゃありませんの」 「食い物でも持ってきたか」 「酒肴《しゅこう》をそろえてございます。この場を、尤家におまかせ願えませんでしょうか」 「つまり、尤家がこの場もとりしきると——?」  場をととのえ食事を提供する、というだけではない。この場の責任を持つということ——何事か起きた場合は、起こした側が尤家の制裁をうけることになる、というのである。たとえば、淑夜がふたたび無影の身に危険を及ぼすようなふるまいに出れば、〈容〉には、尤家の扱う品がはいってこないことになる。逆もまた、同様。尤家は瀘丘《ろきゅう》から撤退するだろう。  もともと、間《あいだ》の使者にたっていたのは尤家に雇われた野狗《やく》である。ここで尤家が出てきても、不自然な話ではない。大牙も、万一、義京付近で危険が迫れば、尤家に逃げこむつもりでいた。最初から尤家を頼らなかったのは、極力、借りは作らない方がいいという大牙の主張に淑夜が同意したからだ。 「そのために、わざわざご当主が遠い道のりを出てきたわけか」 「他でもない、大牙さま方のためですもの」 「ありがたくて、涙が出そうだ」  わざといやな顔をつくりながら答えると、暁華は明るい笑い声をたてた。 「実のところ、それだけが理由ではないのですけれどね。では、よろしいですわね」 「うまい物を食わせてくれるんだろうな」 「お任せくださいまし。昔の寿夢宮のようなわけにはまいりませんけれど」  そこではじめて、遠い目をして暁華は周囲を見回した。 「さすがに、悲しくなりますわね。——あまり奥に席を設けないよう、わが家の者たちに命じてまいりましょう。あたくしは消えますから、あとは皆さまで段取りを決めていただきましょう。決まったら、お呼びくださいまし」  侍女をうながし、裳裾《もすそ》をひるがえす。婦人としては型やぶりな言動に、久々に圧倒されている間に彼女の姿は消え、時間だけが流れた。  実際には、一刻《いっとき》(二時間)の十分の一ほどだったのだが、すくなくとも淑夜には、四年以上の歳月のように感じられた。  その四年の歳月が、柱のむこうからゆっくりと姿を見せたのだ。 「——あれが」  四年の間、この瞬間、この一瞬だけを想像して生きてきたような錯覚に、淑夜はとらわれた。  二度と会うことはないと、思い極めていたはずだった。それでも、もし会うことがあるなら、どんな場面だろうかと想像してみることはあった。戦場でか、それともどちらかが敗れた時か、生きてか落命の後か。  生きて、おだやかとはいえないまでも干戈《かんか》を交えることもなく、こうやって対面できるなど、一度も想像できなかった。 「こうして見ると——やはり、少し似ているな」  大牙が、ふりむかずにささやいた。  淑夜は、無言のままうなずいた。大牙には見えなかったはずだが、気配でわかったのだろう。くちもとが少し、ほころんだようだった。  だが、ほんとうに似ているのだろうか。  淑夜は目を大きく見ひらいて、ゆるやかな足どりを運んでくる人物を見つめていた。  もともと、すらりとした長身だった。一族の中でも、特に容姿にすぐれた漢だった。それだけに、庶流故《しょりゅうゆえ》に世に容《い》れられない不満も大きかったのだ。  あのころは、たしかに似ていたかもしれない。容貌のみでなく、置かれた立場も| 志 《こころざし》のありようも。だが、今はどうだろう。  他人ならふてぶてしくみえるほど落ちつきはらった態度といい、たくわえられた口髭といい、いかにも一国の国主らしい威厳が備わっていることに気づかないほど、淑夜も鈍くはない。  くやしいが、王を称するにふさわしいものを、外見と内面と、双方から備えつつあるのだ。その、よくととのった怜悧《れいり》な面に、王たるにそぐわない違和感があるとすれば、左頬に走った薄い傷痕のみ——。 (——あの時の)  愕然《がくぜん》となった。  膝が——ことに左膝に、崩れ落ちそうな感覚がはしった。  四年前、おのれがふりかざした剣の下で血を噴いた傷——それが、痕跡となっていたことはうすうす聞いていたが、これほどはっきりとしたものだとは思わなかった。 (私は——何をしたのだろう)  一時の憎悪で、おのれの左脚の自由を失い、無影の顔に消えない傷をつけた。ただ、それだけのことではなかったか。 「淑夜——!」  どれだけの間、放心していたのだろう。  摩擦音まじりの声に叱咤《しった》されて、我にかえると、無影の容貌が真正面にきていた。  冷たい静寂が一瞬、その場を支配した。  先に、無造作にそれを破ったのは大牙だった。 「はじめて、お目にかかる。〈容〉伯国|執政《しっせい》、段大牙だ」  この緊迫した空気の中でさえ、大牙の朗《ろう》とした声は陽気さを失っていなかった。あらたまりはしていたが、ぬけぬけと初対面のあいさつをしてのけたところなど、芝居気さえかかっていた。  それに触発されたのだろうか、無影のくちもとが冷笑のかたちに動くのを、淑夜は見た。 「二度目であろう」 「は——?」 「お目にかかるのは、これで二度目だと申しあげている。——これをまず、うけとっていただけようか。是非、お返ししようと、わざわざ持参したのだ」 「つつしんで」  と、大牙が応えると、無影のかたわらにぴたりと控えていた若い男が、なにやらひどく細い包みをさしだした。 「あのおりは、世話になった」  とさしだされ、手を延べて触れたとたんに、大牙は声をあげて笑いだしたものだ。 「ああ——あの時の」  薄い布をはらうと、出てきたのは一本の矢。矢の軸を青く塗り、矢羽は赤という派手なもので、その上に細い鉄製の矢柄にれいれいと文字が刻みこまれている。 『奎国太子《けいこくたいし》、段驥《だんき》、射之《これをいる》』 「巨鹿関——いや、これは長泉の戦の時のか」 「われわれが矢石《しせき》を交えたのは、あの時しかあるまい」 「あの時は——なんでもいいから、驚かせてやれとつっこんで、目についた中で一番りっぱな戦車にぶちこんだのだ。そうか、御身の車だったのか。まさか、ほんとうに御大将どのの車だったとは思わなかった。いや、これは失礼した」  手にとって、つくづくと文字をながめながめ、高笑いをする。屈託も遠慮もあったものではない。無影が、この矢で牽制して大牙をおそれいらせようと思っていたのだとしたら、見事な失敗だった。 「淑夜、なくした矢がもどってきたぞ。これは幸先《さいさき》がいい」  名を呼ばれて、淑夜はゆるやかに視線を上げた。  自分でも意外なことに、身体が震えてもいなければ、胸の動悸《どうき》が高くもなっていない。逆に、自然に笑いがこみあげてきたぐらいだ。  おそらく、大牙のいくぶん芝居がかった言動にひきずられたのだろう。  たしかに身ぶり手ぶりは多少大きいが、いかにも大牙らしく、陽気で屈託もてらいもない。それでいて、十分に無影の気にさわるようには計算しているのが、淑夜には手にとるようにわかったのだ。  微苦笑に近いものをうかべながら、淑夜は手をのべて矢をひきうけた。二、三歩ひきかえして、後方の兵士を呼ぶ。その時、はじめて無影のものと思《おぼ》しい視線を背後に感じた。  それまで、無影が自分には一度も視線を向けてこないことに気がついていた。淑夜を、存在しないものとして扱うという意思表示なのか、それとも淑夜と同様、幾分でもやましさを感じているのだろうか。  いつもの杖を、淑夜は持っていない。  この場には、武器は不携帯という申し入れが、無影の側からなされたのだ。淑夜の杖も、淑夜にとっては武器にちがいないということで、大牙が止めた。  無用に相手を刺激しても、仕方がない。 「そのかわり、万一の時には俺がたすけてやる」  わずかだが左脚をひきずる姿が、無影に何を感じさせたのかはわからない。だが、実際にみつめられて、案外、その視線が気にならないことに気づいた。あるがままの自分で何が悪いのかと思うと、気分が楽になった。  一時の激情の代償を自分なりに支払った結果だと思えば、恥ではない。  落ちついた挙措《きょそ》で兵士に矢を渡し、自然な態度で大牙のかたわらにもどる。 「感謝する。先にこの場に来ておきながら、満足な準備もできていないが、暁華どのが席を設けてくれるそうだ。そちらへまず、移ってから——」  大牙がもちかけたが、無影は首をふって応じた。 「いや、その前に。こちらがお預かりしていたものをお返ししたのだ。そちらにお預けしているものを、返していただけまいか」 「はて、何のことだ」 「五城の価値のあるもの、といえば、おわかりになるだろうか。もっとも、それだけの価値があることをご存知なかったのかもしれぬが。ご存知ならば、すぐに返していただけたものをと、残念に思っている」 「ああ——」  大牙は、あっさりとうなずいた。そして、 「おまえを返せだと、淑夜」  あからさまに、口にしたのだった。無影の面に、愕然といった感情が走った。遠回しに、腹のさぐりあいをするつもりだったのだろう。淑夜の存在を無視したのも、婉曲《えんきょく》な論理で話の主導権をとろうとする伏線だったのだろう。が、大牙はその手にはのらなかった。しかも、淑夜を当事者にひっぱり出してしまったのだ。 「困ったな」 「ええ」  淑夜も、即座に同調してみせた。平静を装う必要が、不思議なほどになかった。無影の額に、深いたて皴《じわ》が刻まれるのを淑夜は目の隅で見た。憤激、というよりも困惑の表情だった。 「今さら、そんなことをいわれても困るし、だいいち、人ひとり、品物ではあるまいし、返せといわれて返せるものかどうか。そりゃ、本人にその意思があるのなら、別だが、なあ」  同意を求められても、淑夜も困る。  かるく肩をすくめてみせることで意思表示した。 「そもそも、理由はなんだ」 「わざわざ、いわねばわからぬか」 「わからん」  あっさりと答えられて、無影は一瞬、絶句する。 「俺は、まわりくどいことは、話すにしても考えるにしてもきらいだ。耿淑夜がやってのけたことは、承知している。俺が知りたいのは、それについての御身《おんみ》の存念だ」 「存念?」 「何に対して怒っているか。一族の堂弟《どうてい》に危害を加えられたためか、それとも一国の君主として、刃向かった者が許せぬのか」  つまり、私《わたくし》の怨恨《えんこん》か公《おおやけ》の犯罪か。 「私事ならば、俺が引き渡しをことわったところで、盟約を結ぶについては関係があるまい。だから、ことわる」  大牙は、きっぱりという。 「公だというなら——こいつを断罪する前に、罪に問われなければならない者がいるはずだ。殺しそこねたら悪で、まんまと殺しおおせたら国主だ、正義だというのなら、俺は根本からこの盟約を考えなおさなけりゃならん」  一瞬、無影の頬の傷が白く浮かびあがるのを淑夜は見た。  是か非かは別として、無影はたしかに主君である偃氏《えんし》を弑《しい》している。その点からいえば、彼に淑夜を責める資格はない。  淑夜がひやりとしたのは、大牙のせりふがあまりにも率直すぎるからだ。論理は正しいが、ここはまっすぐに無影を責めて追い詰めても仕方のない場面だ。  とっさに大牙の腕をおさえて、注意をひいた。同時に、無影の方も自制心をとりもどしたようだ。頬の色がさっともとにもどる。そして、 「どうやら、話をしても無駄のようだ」  くちびるをゆがめて、しずかにつぶやいた。 「帰国の支度をするよう、尤夫人に告げてまいれ」 「は」  かたわらの男が、上目づかいに大牙たちをちらりと見ながらうなずいた。だが、すぐに指示にしたがう気配はみせない。 「どうした。早く行かぬか」  狗《いぬ》でも追うように命じるのを、ようやく大牙が制止した。 「帰国? まだ、何も話してないぞ」 「話にならぬ。信用ならぬ相手と盟約が結べるかどうか、考えてみるがよい」 「待った。信用といったな。ならばいわせてもらうが、この話、先に持ちかけてきたのはそちらだ。ならば、何故その時に、こいつを引き渡せという条件をつけなかった」  淑夜を、指で示す。 「すくなくとも、使者に来た奴はひとこともいわなかったぞ。俺をひっぱりだしておいて、今になってそんなことをいいだすのは、勝手すぎはしないか」  口は悪いが、論理は通っている。そこまではいいのだが、 「帰るのなら、俺が先だ。断ったのも、俺の方からということにしろ」  妙なことをいいだした。 「——おなじことであろう」  さすがの無影もこれにはめんくらって、気のきいた返答が出てこない。 「同じなものか。俺はここまで来るのに、〈乾《けん》〉と〈貂《ちょう》〉の内諾《ないだく》まで得てきたんだ。それを、断られましたでは帰れん。だから、先に帰る。——行くぞ、淑夜」  声をかけて、ほんとうにくるりと身をひるがえしたのには、淑夜もおどろいた。 「大牙さま!」  と、淑夜が呼ぶより早く——。 「段公子」  無影の冷ややかな声に、かすかに熱と焦りと、そして自嘲《じちょう》の色がまじったのである。  大牙は、肩ごしにふりむく。 「わかった。もどられよ」 「では、いいのか」 「よくはない。だが、話しあう余地はあるだろう」 「余地なんぞ、ないつもりだが。——そうだな、そちらがそこまで譲歩してくれたのだ。俺も考えてみないでもない」 「何を、考える」 「借りにしておく、というのはどうだ」 「——借り?」 「今は俺も他国に仮住まいの身で、勝手にはならん。だが、〈奎〉再興の暁には、五城を〈衛〉に割譲する」 「五城で、買いとると——?」  無影の視線がはじめて、正面から淑夜を見た。不思議そうな目をしていた。まるで、見知らぬ人間を見るような目つきだと、淑夜は思った。 「支払のあてのない話にはのれぬ」 「何をいう。俺が御身と盟約を結ぶのは、ひとつには〈奎〉の再興のためだ。それがかなわぬというのは、御身が〈奎〉の再興には不服ということか。それとも、御身の思惑ではもともと、〈奎〉などどうでもよいことになっているのか?」 「——いや」 「なら、あてになる話ではないか」  呵々《かか》と、大牙は高笑いをあげた。 「御身が手を貸してくれれば、きっと事は成る。そちらは、五城が手にはいったも同然、こちらは大事な謀士の命をたすけられる。それで、万事まるくおさまるではないか。どうだ」  今の無影の目に、自分がどういう風に映るのだろうと淑夜は思った。  自分の姿をつくづくと見るわけにいかず、歳月がおのれにもたらした外見の変化も、淑夜は自覚していなかった。  最後に見てから、四年。  それも一瞬の、斬撃《ざんげき》の間の対面だった。  その前に会ったのは、淑夜が瀘丘《ろきゅう》を離れる時だから——今から七年も前のこと。淑夜は十五歳の、まだおのれが何者か知らない少年だった。  あれから、確実に背丈が伸びた。  やわらかな孩子《こども》の頬が消え、顎《あご》のあたりに鋭い線があらわれかけている。それが無影と共通のものだとは、さっき大牙が指摘したとおりだ。  不安定な夢想をうかべていた眼は、目前の現実を見据える深みを増した。机上の論理ではなく、体験による知識を身につけてきた自信が挙措《きょそ》にもただよいはじめている。  もう、無影の知っていた淑夜はどこにもいないのだ。同時に、淑夜が実の兄よりも尊敬していた無影も、すでにこの世にはいない——。 「虫のよい話だな」  淑夜に視線を固定したまま、無影はつぶやいた。 「もともと、そちらの言い値だ。文句はあるまい」 「それほど、惜しいか」 「正直な話、〈奎〉が滅んでからこちら、〈奎〉の臣でもないのによくついてきてくれた。それだけでも、五城の価値はあると思っている」 「大牙さま」  本人のいる前でこうも手放しで誉められては、いたたまれない。面映《おもは》ゆさにうつむきかけて、無影の視線の変化に気づく。 「——けっこうなことだ」  その冷笑が、淑夜と無影自身と、どちらに向けられているのか、判然とはしなかった。ただ、無影は笑って、諾といった。 「よかろう。それで、手を打とう」 「ありがたい」  と、ここでようやく、大牙は無影に対して向きなおった。 「話せばわかると思っていた。あとのことは、座ってゆっくり話そうではないか、耿無影どの」 「主公《との》——」  今度は無影のかたわらの若者が、低く無影にささやいた。 「よろしいのですか」 「だまっていよ」 「しかし」 「この件については、口だし無用。控えておれ、癸父《きふ》」  一喝されて若者は口をつぐんだが、不服そうな表情が残った。  淑夜も大牙も、あらためて彼を見なおした。年齢は淑夜とおなじころか、もう少し若いほど。だから、侍僮《じどう》というには年長すぎるにしても、身の回りの世話役程度にしか認識していなかった。うかつといえば、うかつだった。 (何者だ——?)  ふたりの視線の中の疑問に、気づかない無影ではないが、 「そうだな」  しらぬ顔で、同意した。 「尤夫人の酒肴の用意が、そろそろできているころだ。あまり待たせると、あのご婦人の機嫌を損じる。怒らせるとこわい」 「御身でも、そうか」  うれしそうに、大牙が身をのりだした。 「そうか、暁華どのが苦手なのは俺だけではなかったか。いや、話してみるものだな。これは、他の話も合いそうだ。来てよかったな、淑夜」      (三)  席を改めた後で決定することは、思っていたより少なかった。  要するに、〈衛〉と〈容〉、両者ともに〈征〉を当面の敵としてあたることを確認するだけだ。〈征〉と敵対するについては、歩調をそろえること。援軍の要請があれば、たがいにすみやかに応じること。〈乾〉や〈貂〉については、この盟約には拘束されないが、〈容〉が他の諸国をかたらう分にはさしつかえないこと。  ある程度までは、野狗の口上で伝えられていたことだ。  それでも、手まわしよく練られた文案が、癸父《きふ》とよばれた若者の手によって広げられた時には、大牙も淑夜もあまりいい気はしなかった。  ちなみに、大牙たちが文書を用意しなかったのは、万一にでも〈征〉の兵にみとがめられた場合に、身分が知れて面倒をひきおこすことを恐れたからである。文面を考えなかったわけではない。だが、淑夜が一字一句記憶しているのに、わざわざ書きとめておく必要もない。 「こうして、仮にも同席しているのだ。名ぐらい名乗るのが礼儀というものではないか」  大牙が、めずらしく難癖をつけた。  若者は、あわてるそぶりもない。 「商甲《しょうこう》、字《あざな》を癸父と申します。以後、見知りおきください」 「無影どのの謀士か」 「とりあえず、通才《つうさい》をうけたまわっております」  通才とは、軍中にあって人の接待にあたったり、悶着《もんちゃく》を解決したり——いってみれば、雑用係か将の秘書のような役目である。戦で華々しい活躍をする部署ではないが、どうしても生じる細かな問題の処理を一手にひきうけ、後方を安定させるという意味では、なくてはならない。 「いくつになる」 「二十歳です」  若い上に、商《しょう》という姓が〈衛〉の士大夫の中にないことを、淑夜は知っていた。甲という単純な名自体、名家の出ではないことを語っている。 「無影どのの抜擢《ばってき》か」  無影は一応、〈衛〉王を称しているのだが、大牙の立場としてはそれを認めるわけにはいかない。だから、無影の無表情な顔は承知していても、名を連呼せざるをえない。 「学舎《がくしゃ》で首席をつとめました。このたびのお供も、学舎から選抜された者が多くつとめております」  そういえば、荷役の小者に化けた兵士の中に、あきらかに力仕事には不向きな若者たちが数人まじっていた。 「——学舎」 「お聞きおよびかと思いますが——」 「〈征〉の、太学のようなものだな」 「わが〈衛〉の学舎の方が、設置は早うございます」  誇らしげに訂正するその顔は、額が広く眼が鋭く、才気にあふれているのと同時に、高慢そうにも見えた。あとで大牙が、 「小才子《しょうさいし》だな」  吐きすてるように印象を述べたが、淑夜も同感だった。 「いやな人相をしていた。上目づかいは、性根がいやしい証拠だ」  この場合、大牙が問題にしているのは純粋に自分の印象であって、身分や出自を云々《うんぬん》しているわけではない。 〈魁〉の王家よりも古い家柄だからといって、無能な者は無能だし、つつましく生きている庶民の中に高潔な人材がいることを、大牙は知っている。 「たとえば、太宰子懐はれっきとした卿大夫だったが、中身は|※[#「彑/(「比」の間に「矢」)」、第3水準1-84-28]《ぶた》そのものだった。巨鹿関で淑夜の介添えをつとめさせた——夫余《ふよ》といったか、あの男は一兵卒にすぎなかったが、誠実で有能だった」  では、見るべきところは、きちんと見ているのだ。とりかわした盟約の文書をちいさくたたみながら淑夜がうなずいたのは、そちらの安堵のためだった。  ちなみに、この書面はちいさくして蝋で塗り固める。機密保持と防水のためである。さらに、泥を塗り中身を隠して持ち帰ることになっている。 「しかし、あんな小ざかしい若僧どもを側近に置いて、他の連中からよくも反発が出ないものだな。〈衛〉には古くからの名家が多くあるはずだ。小うるさい卿大夫どもが、なにかといいそうなものだが」  耿無影が国主の座におさまれたのも、無影自身は庶流からの成り上がりでも、耿家は一国の大臣をつとめる家柄だったからだ。家柄を誇り、代々うけ継いできた彼ら卿大夫たちにとって、まったくの庶民が政に参画《さんかく》するなど信じられない事態にちがいない。 「小ざかしい若僧なら、ここにもいますよ」  淑夜が苦笑しながら混ぜかえすと、 「おまえは、すくなくとも連中といっしょに苦労をしている」  まだ、淑夜を他処《よそ》者として見る者もいないでもないが、一方で冀小狛のような理解者も現れている。 「下げなくてもいい頭を下げてきた結果だ。だが——癸父とかいうあいつが、他の連中に頭を下げる気があるかな?」 「さあ」  数語をかわした程度では、どちらとも断定はできない。 「不思議なのは、耿無影ともあろう漢が、あんな連中をのさばらせて、不満を放置していることだ。——それとも、わざとかな?」  首をかしげてから、大牙は大仰に頭をかきむしってみせた。 「止めた。どうも、考え事は俺の得手《えて》じゃない。さっき、一生分の知恵と舌を使いきってしまった。あとは、おまえが考えてくれ」  勝手なものである。 「どうせ、一晩、眠れないんだ」  大牙の一行も無影の一団も、義京に戻る時間がなくなっていた。寿夢宮の敷地は、下手な小邑ほどもある。両者を隔離して、それぞれの宿舎を設置する分には、まったく問題なかった。その上に、尤家の者がそれぞれの陣営に世話役という名目で派遣されてきている。まちがっても、寝首をかかれるおそれはないが、だからといって高いびきで眠れるほど無神経でもない。  兵士たちは交替で休ませるが、大牙も淑夜も燎《かがりび》のそばで徹夜覚悟だったのだ。 「——だれだ」  突然の兵士の誰何《すいか》の声に、大牙も淑夜も緊張した。が——。 「あたくしですわ」  すぐに、暁華のあでやかな姿が明かりの中に現れた。 「なんだ、こんな時間に」 「申しわけございません。すこし、淑夜さまをお借りしたいのですけれど」 「なんだ、おだやかではないな」 「もっと気のきいた冗談はおっしゃれませんの、大牙さま? 例の書物の件をうかがっておきたいだけですわ。じかにお目にかかれることなんて、めったにありませんもの」  義京の尤家の書庫にあった大量の書物は、乱の時にすべて失われている。暁華の亡夫が集めたという中には貴重な書物もあったのだが、重要なものはほとんど淑夜が記憶していた。淑夜の才能をみこんだ上、乱が起きるのを予想して、暁華が先手をうっておいたというわけだ。  淑夜の記憶力なら、一字一句まちがいなく、もとの書物に復元することができる。世情《せじょう》が落ちついている間に、一冊でも多くの文書を文字にもどしたいというのが暁華の願いであり、少し前からその依頼は淑夜のもとにも届いていた。淑夜もすでに一、二冊は仕上げているが、冀小狛の下での仕事が優先されて、作業は遅々として進んでいない。 「紙や帛《きぬ》の調達やら、それをお届けする時期やら手をつける順番やら、いろいろとお願いしておきたいことがございますのよ」 「あまり、書き物ばかりに追い使ってくれるな。淑夜は俺の謀士であって、尤家の右筆《ゆうひつ》ではないぞ」 「わかっておりますわ」  大牙が、暁華の真の理由に気づかないはずはなかったが、無理にひきとめるようなことはしなかった。淑夜がくちびるをきっと引き結んで立ち上がるのを、黙って見ていた。  昨夜は暗闇のままだった長い回廊に、今夜は灯りがともっている。尤家の手で、要処要処に油燈《ゆとう》が配置されているのだ。見捨てられた離宮の近在に近寄る者などないが、今夜の寿夢宮を見る者があれば、幻を見たと思うか、衷王の怨念がさまよっているのかと疑ったにちがいない。  回廊を、どれだけ行ったことだろう。  不意に、暁華がふりむいた。 「——あちらに」  荒れはてた院子の中にひと処、四、五尺(一尺=二二・五センチ)ほどの高さに土を盛り上げた場所があった。月台《げつだい》といって、文字どおり月を観賞するために設けられた高台である。  かつては代々の〈魁〉王が、月見の宴を催した場所——たいらに均《なら》して磚《かわら》を敷いたその頂きにたたずみ、天空をふりあおいでいる背中があった。 「あたくしは、これで」  ささやくと、花の香りを残して暁華は立ち去ってしまった。  残されてもしばらくのあいだ、淑夜はだまってその長身の背中を見ていた。不思議と、どんな感情も湧き上がってこなかった。恐怖も憎悪も、そしてなつかしささえも。  月が頭上にかかっていることには、かなり経《た》ってから気がついた。昨夜ものぼっていたはずだが、気がつかなかった。晴れわたった夜空に、皓《こう》と冴《さ》えた二十日の月が輝いていた。いびつな形だが、澄みとおるような色をしていた。  沈黙に、先に耐えきれなくなったのは、無影の方だった。 「——淑夜か」  返事はしなかった。要求されていないとわかっていたからだ。ゆっくりと、無影の長身がふりむく。ととのった横顔が月光を浴びて、さらに冴える。だが、次に彼の口をついて出てきたのは、毒のあることばだった。 「うまく飼いならされたものだな」  淑夜は一歩、前へ踏み出したが、反論はしなかった。 「それとも、おまえがあやつを手なずけたのかな。あの長広舌も、おまえの入れ知恵だな」 「半分ほどは」  それが、正直なところだった。  無影が理詰めでくることはわかっていたから、ある程度の問答は想定して、大牙に教えこんでおいたのである。五城の借りは、淑夜の発案だった。とにかく、〈奎〉再興までは自分の首を確保しておくための、窮余の一策だった。  だが、大牙は淑夜が教えた以上のことを口にした。具体的には、無影の非を遠回しにだが鳴らしたことだ。淑夜には、どちらにせよ無影を追及する気はなかった。盟約を結ぶことを考えれば、相手の機嫌を損じてもなにもならないと思ったからだ。 「りっぱなものだ。そこまで、あやつに尽くす理由はなんだ」 「たのまれたんです」  自分でも妙な返答だと思った。無影が眉を寄せた。 「何?」 「大牙さまに乞われたんです。謀士として迎えると」 「それで舞い上がって、一も二もなくついていったか。俺には剣を向けておきながら」 「すくなくとも、あなたには一度も頼まれませんでした」  表情こそ変わらなかったが、左頬の傷痕が白くうかびあがるのが、月光の中でもよく見えた。 「——俺に頭でも下げさせたかったのか、おまえは。頼んでいたら、俺の手助けをしたとでも?」 「それは、わかりません」  首をふりながらも、淑夜は思った。もしかしたら——と。  心酔していた無影に必要とされるのなら、父や兄をその手にかけて悔いなかったかもしれない。それとも、やはり無影に敵対し、斬りつけていただろうか。 「では——」  無影はいったんそこで口をつぐむと、しばらくためらっているようすだった。 「では、もしも今、頼んだら——〈衛〉にのこのこともどるのか」 [#挿絵(img/04_145.png)入る]  そのせりふ自体が頼みなのだと、淑夜は感じた。自尊心の強い無影が、これでもせいいっぱい頭を下げているのだ。  何をいまさら——という激しい思いで胸が満たされた。いまさら、遅い。こうなってしまってからでは、何もかも。  そう叫ぼうとして、できないことに気がついた。  胸の中がからになったような感覚だった。さっき突き上げてきた激情が、霧かなにかのように消え失せた。うつろというのとは、また違う。ちょうど、月光で胸の中を洗い流してしまったようだった。ひょっとして感情をなくしてしまったのだろうかと、淑夜は自問しながら、しずかに口をひらいた。 「——今の〈衛〉に、私は必要ではないでしょう」  おだやかな、透明な声に淑夜は自分でもおどろいていた。無影はもっと、おどろいたようだった。淑夜がもっと激しいことばを投げつけてくるものだと、覚悟し身がまえていたのにちがいない。  月台の上からまじまじと自分を見おろす視線を、淑夜は余裕をもってうけとめることができた。 「何故だ」 「——え?」 「何故、責めぬ。四年前、斬りかかってきたのは、俺を責めるためではなかったのか。何故、一族すべてを殺してのけたのか、その理由を聞きにきたのではなかったのか」 「今となっては——」  どちらでもいい、というわけではない。だが、聞いたところで誰ももどっては来ない。ならば、聞かない方がいいのかもしれない。  無影の冷笑が、月光の中でひらめいた。淑夜にではなく、自分自身に向けた嘲笑だった。 「——そうだな。今となっては誰が謀叛《むほん》をたくらんだかなど、どちらでもよいことかもしれぬな」 「誰が、とは?」 「誰にもいわぬつもりだったが——おまえには聞く義務がある。最初に、事を起こそうとしていたのは、おまえの兄だ」 「——どの兄です」  淑夜は七男、上には六人の兄がいる。母がちがう上に、年齢《とし》が離れていたせいで、どの兄も記憶はおぼろだ。 「二兄《にけい》」 「炳《へい》兄上ですか」  正妻の子ではなかったが、耿家《こうけ》の宗家《そうけ》の世嗣《せいし》にさだめられていた兄だ。  才気煥発《さいきかんぱつ》というのか、頭はよかったにちがいないが、淑夜たち目下の者には優しいとはいいがたい兄だった。その反面、父や伯父たちにはひたすら従順で、まだ少年の淑夜の目にも、裏表の多い性格に見えたものだ。同母の長兄と、おない歳で嫡子の三兄をさしおいて世子となったのも、ふたりの兄が父に疎《うと》んじられるように陥れたのだという噂だった。ただし、これはあくまで家の内部でささやかれていた噂で、真実は淑夜の手のとどかないところへいってしまった。  だが、無影の口からその名を聞いた時に、まさかと思うと同時に、あの兄なら——と感じたのも事実だった。 「ですが、父上は。父上がそんなことをお許しになるはずがなかったでしょう」  やはりあやふやな記憶しかない父だが、厳格で変化をきらう性格だと、淑夜はおぼえていた。 「それが、まんまと丸めこまれていたのだ、伯父上がな。どう説いたかまでは知らぬ。だが、杜撰《ずさん》な話だった。一族の末端の俺のところにまで、その話が漏れだしてくるぐらいだ。そもそも、最初の段階で破綻《はたん》しているようなくわだてだった」 「——そんな」  おのれの声が喉にからむのを、淑夜は聞いた。 「まさかと思うか。俺も、最初はそう思った。二兄は野心家だが、そこまで莫迦ではあるまいとな。それがかいかぶりだったとわかるまで、時間はかからなかった。その時に、俺は思ったのさ。これは、二度とない機会だとな」  もう、淑夜は声が出せなかった。衝撃故ではない。無影のはりつめたような気迫に、圧倒されたのだ。 「俺も、考えたことがあった。宗家をひっくりかえして、実権をにぎる方法、国主を倒して、一国を手中にする方法、そして——。考えはしたが、すべて机上の空論だとあきらめてきた。そんな隙がどこにあるとな。ところが、長年夢見てきた空論を現実に変える機会が、突然、目の前にぶらさがったのだ。誘惑を押さえることなど、できなかった。二兄も耿家も、いずれ腐って折れる枝だ。それを俺が踏み台にして、さらに高いところにのぼって、何が悪い」  昔、淑夜とともに逼塞《ひっそく》していたころから、そんなことをずっと考えていたのだろうか。もしも、淑夜が〈衛〉にいる間にその機会とやらが訪れていたら、淑夜まで犠牲にしたのだろうか。それとも——。  淑夜は、背筋になにかが走るのを感じた。怯えではなかったが、なにか恐ろしいものにはちがいなかった。 「後で、宗家にぬれぎぬをきせたと思われるのは覚悟していた。だが、実際にそんな陰謀が進行していなければ、いくら俺でも、証拠をすべてでっちあげるのは無理だった。いい逃れようのない証拠があったからこそ、讓公《じょうこう》は俺の密告を信じたのだ。どちらにしろ、耿家は助からなかったのだ。大逆の汚名を俺がひっかぶっただけ、ましというものだ。宗家の名誉を守ってやったのだ。感謝されてもいいぐらいだとは思わぬか」  傲然《ごうぜん》といい放ったにもかかわらず、無影の姿が突然、寂しげに見えた。けっして言い訳などではない。人を人とも思わない見下した口調も態度も、言い訳とはほど遠かった。なのに、無影がどこかで悲鳴をあげているような気が、淑夜にはした。  彼が語っているのはおそらく真実だと、直感した。  淑夜が不在の間に事を起こしたのは、二兄たちの陰謀とやらが急だったせいもあるだろう。だが、考えようによっては、淑夜につらい選択を迫らないためだったとも解釈できる。真実を知るということは、物事の裏と表をひっくりかえしていくことなのだ。  無影は、ひとりで苦しんできた。それが、淑夜には痛いほどわかった。だれにも、真実を語ることができなかった。それが、淑夜という聞き手を得て、今夜、一気に噴き出したのだ。おそらく、彼の心中の傷は今、いっせいに血を噴いているにちがいない。  にもかかわらず——。 「でも、あなたが耿家を滅ぼしたことに、かわりはない」  淑夜は、首をふった。  無影の心情は理解できる。だが、共感はできなかった。耿家が二兄の杜撰な陰謀で滅びたとしたなら、それは自業自得というものだ。  だが、なんの罪もない幼い妹たちや、他家に嫁いだ姉、生まれたばかりの甥まで殺す必要があったのか。それが正しいことなのか。偃氏《えんし》の追及があれば、やはり逃げたかもしれないし復仇《ふっきゅう》を思いたっただろう。偃氏に対して許せないことを、無影の仕業だからと許せるものなら、それこそ死んでいった者たちは報われない。 「当然だろう。俺には、あの莫迦どもとともに滅んでやる義理などない」 「それほど、憎かったんですか」 「憎かった」  意外に素直に、無影は認めた。 「ことに、二兄はこの手で殺してやりたかった」 「何故——」 「二兄は——連姫《れんき》に目をつけていたのだ」 「れんき?」  ほんの一瞬だったが、淑夜がその人名を思い出すまでに時間がかかった。おさななじみの|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》連姫の、白く臈《ろう》たけた面影を記憶の底から掘りおこしたのは、さらにその後である。  すっかり忘れていた——というより、別のおもざしの方が強かったのだ。  七年前の淡い思いと三年前に何度か会ったのみの面影となら、いい勝負だったはずだ。だが、昨夜、寿夢宮《じゅぼうきゅう》の梁《はり》からその面影はよみがえったばかりだ。少女の記憶が強烈な印象と変わっていたのが、淑夜の罪とばかりはいえなかった。  しかも、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》連姫は、国主となった無影の室《しつ》にはいったと聞く。もはや、自分とは無縁の人間だという認識が淑夜にはある。  淑夜の表情にわずかの間だが、空白が生まれた。それを見逃すような無影ではない。 「|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》——連姫どのですか」 「他に、だれがいる」 「あの人を、炳兄上が? ですが、兄上には嫂上《あねうえ》の他に何人も——」  まだ未成年の淑夜には正確な数は知りようもなかったが、とにかく側妾《そくしょう》の多い人だったはずだ。 「二兄にとっては、美姫《びき》ならばだれでもよかったのだ。権柄《けんぺい》ずくで差し出させようとした。|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器《りき》には、おのれが国主になったあかつきには、正妃にするとまでささやいてな」  ——杜撰、と先ほど無影が表現した理由に、納得がいった。なるほど、杜撰というより、いっそ児戯《じぎ》といった方が正しい。孩子《こども》の夢想だ。 「利器の奴がまた、それにのったばかりではない。未来の公妃の叔父になるのだと、威張りだした」  |※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は、連姫の叔父で|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》家の当主だった。一時は〈衛〉の将軍としてときめいていたが、巨鹿関の敗戦の責任を問われて出奔したあげく、あろうことか大牙の下にころがりこんできて、しばらくの間〈容〉のやっかい者になっていた。利に聡《さと》く軽薄な人物で、結局、前〈容〉伯に媚《こ》びて大牙を陥れようと画策し、逆に〈容〉伯もろともに罠にはまって、またしても姿をくらましてしまった。  |※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器も小人物だが、その人柄を見抜けずに軽々に大事を漏らした耿炳もろくな人間ではない。無影の憤《いきどお》りも、なるほどと思わざるを得ないところもあった。  淑夜が意外さにたちすくんだのは、その後だ。 「おまえがいけなかったのだ」 「——え?」 「おまえが、さっさと妻に定めておかなかったからだ。いくら部屋住みの身でも、耿の宗家の子なら不可能な話ではなかった。義京へ行く前に、婚約だけでもとりかわしておけばよかったのだ。二兄が非道《ひどう》でも、弟の妻を奪うような真似はできなかったはずだ」  淑夜は、あっけにとられて、ただ無影の顔をあおぎ見るより他なかった。  理不尽な、としかいいようがなかった。  結婚は親同士の決めることで、幼児のうちに婚約が結ばれることはめずらしくない。現に、揺珠は五歳で〈魁〉王の王太孫に嫁いできている。だが、父親に放棄されたも同然だった淑夜に、だれが妻の配慮などしてくれただろう。たとえ、淑夜から連姫を許婚者《いいなずけ》にほしいと申し出たところで、何を血迷った、分不相応なと一蹴《いっしゅう》されるのがおちだったはずだ。それに、だいいち——。 「ですが、無影」 「伯父上が許さなければ、攫《さら》って義京へ逃げるぐらいのことを、何故しなかった」  それも、無茶な話だ。どうやら、一度はけ口を見いだした無影の感情は、歯止めがきかなくなったらしい。これは、完全にやつあたりだ。 「連姫どのが、それを望んでいたとは思えません」  淑夜には、確信があった。  とりたててはりあげたわけではなかったが、ぴたりと無影の声がやんだ。一瞬、無影の表情に虚が生まれた。頬を殴られでもしたような顔つきで、茫然と淑夜を見おろしたが、 「——そうか」  口の中でつぶやいた。 「おまえの気持ちは、その程度だったか。すっかり、忘れ果てる程度の——」  事実なのだから仕方がない。無影がどう推測していたかまでは、淑夜の責任ではないから、いいわけはしなかった。 「連姫がそれを聞けば、嘆くことだろう。いっそ、じかに聞かせて——」 「——陛下」  女の声が、突然に無影のことばを断ち切った。 「帰れ! 呼ぶまで、来てはならぬと申しつけたはずだ!」  常の無影からは想像もできないほど、激しい怒声が飛んだにもかかわらず、暁華はたじろぎもせずにそこに立っていた。  連姫が話題にのぼっていた時だけに、淑夜は一瞬、胸の動悸が激しくなるのを感じていた。当の連姫が現れたのかと、錯覚したのだ。それが尤暁華だと知れた安堵までは、無影も同様だったはず。怒声は、その狼狽を糊塗《こと》するためだ。そんな声を、尤暁華ともあろう婦人が恐れるわけもない。 「お叱りは覚悟の上。火急の事態でございます。至急、おもどりを」 「まだ、話の決着がついておらぬ」 「——香雲台《こううんだい》の御方が、急病にございます」 「…………」  無影の表情は、一瞬落ちてきた闇に隠れて見えなくなった。声もなく、気配さえ消えた。気まぐれな雲が、月光をふたたび地上にもどした時には、月台からは無影の姿は消えていた。 「香雲台? まさか——」 「お気づきになりませんでしたの? |※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》夫人もここに参られてましたのよ」 「まだ——連れ歩いているんですか」  巨鹿関の戦の時、無影の陣中に有蓋《ゆうがい》の温涼車《おんりょうしゃ》があることを知って、おどろきもし納得もしたものだ。その後も、彼が親征《しんせい》するたび、婦《おんな》を乗せた温涼車も戦場に現れている。あの時は、すぐに連姫の名を連想できたというのに——。  今回は、無影の一行の中に屋根付きの車の存在を知っておきながら、かけらも思いだしもしなかった。  なるほど、無影が怒るのも無理はないかもしれない。男女の情ではなくとも、旧知の人間としてこれは少し冷淡すぎる。 「病気ですか——?」 「淑夜さまにはご懸念には及びませんわ。医者もついておりますし、義京にもどれば薬もございます。それより——淑夜さまもすぐに、おもどりくださいまし」 「大牙さまに、何か?」 「話は、大牙さまより直接。さ、お急ぎに——」 「今すぐ、ここを発《た》つ」  顔を見るなり、大牙が告げた。 「この夜中にですか。無理です」 「無理は承知だ。さいわい、月明かりもある。沈むころには、夜も明けるだろう」 「いったい、何事です」 「野狗が、知らせを持ってきた。〈乾〉が——」 「夏夷さまが、何か」  盟約に関して異議が出たのかと思ったが、大牙は首を横にふった。 「救援を求めてきたそうだ」 「救援?」 「攻めこまれそうだという」 「どこが」 〈容〉が攻めるわけはない。〈乾〉は、〈貂〉ともあまり仲がよくないが、この時期に戦を起こす理由はどちらもない。他の小国に至っては、その力さえないはずだ。 「どこだと思う?」  大牙はいまいましげに、だが、どこか楽しげに訊いた。あとで淑夜にそう指摘されて、さすがに否定したが、たしかに声がはっきりとはずんでいた。 「わかりませんよ」 「驚くなよ。〈琅〉だそうだ。一軍の将軍は、羊角《ようかく》。副将の名を、赫羅旋《かくらせん》という」 「病状は——」  侍女頭の班姑《はんこ》の顔を見るなり、そう尋ねた。めったに動じたことのないこの年配の侍女が、あきらかにうろたえて声もなく平伏した。 「容体をたずねているのだ。何の病だ」  無影もまた、無表情をよそおっているが完全に成功したとはいいがたい。性急にたずねた調子がその動揺を物語っていたが、おのれも気が動転している班姑は気づかなかった。 「申しわけもございませぬ」 「謝罪など、役には立たぬ。申せ」 「——わたくしの罪でございます。身近にお仕えしながら、今日の今日まで気づきませんでした。もしもわかっておりましたなら、今回のご同行は見合わせていただくよう、わたくしからも強くお願いいたしましたものを——」 「だから、何だ」  声に、危険なものが混じった。 「おそれながら」 「申せ」 「お子が——」  涙声が、嗚咽《おえつ》に変わった。 「太医どののお診立《みた》てでは、三月《みつき》にはいるところだったそうで、ございます。お方さまは、お命をとりとめられるそうでございますが、お子は、もはや手のほどこしようがなく——」 [#改ページ]  第四章————————天意      (一)  赫羅旋《かくらせん》は、機嫌が悪かった。  つい数日前、徐夫余《じょふよ》が〈征〉から帰った時には上機嫌で出迎えてくれたのだが、戦《いくさ》の準備にかかる間にどんどんと気むずかしくなっていった。陽気というより、神経がどこか一本、抜けたような性格の羅旋にしてはひどくめずらしいことだった。  怖《お》じ気づいたとは考えにくい。  たとえ負け戦とわかっていてさえ、戦を前にしては元気になりこそすれ、逃げ腰になど一度もなったことのない漢《おとこ》である。巨鹿関に始まって、彼の戦にすべて従ってきた徐夫余にはよくわかる。 〈征〉での、使者の役目になにか不手際があったのかとも疑ってみた。 「——璞《はく》公子の身柄をひきとって帰ってこなかったのは、まずかったでしょうか」  すなおに正面きってたずねてみると、何を莫迦《ばか》なという顔をされた。 「だれも、そんなことをしろとはいわなかっただろうが」 「はい。ですが」 「あんな奴、こちらから引き取りにいく必要があるか。〈征〉が返したかったら、むこうから送ってくるのが道理だ。〈琅〉としては、一生、むこうで飼い殺しにしてくれてもいっこうにかまわんのだからな」  なるほど、返してきた時の処遇は決定されているが、だからといって是非とも帰ってきてほしい人間ではない。騒動の種を、わざわざひきこむこともあるまい。 「でも、やはりだれかもっと、口のたつ方を使者にたてた方がよかったんじゃありませんか。たとえば、壮棄才《そうきさい》どのとか五叟《ごそう》先生とか。俺——どうやら、むこうが知りたかったことを全部、ぺらぺらしゃべっちまったみたいです」 「それでいい」  久々に、羅旋はにやりと片頬で笑った。 「——は?」 「つまり、〈征〉が知りたいことが、逆にそれでこちらにもわかったわけだからな」 「はあ——」  そういえば、馬の数だとか、馬での戦のありさまとかをかなり詳しく尋ねられた。訊かれたということと、その回答も、夫余は羅旋に詳細に報告しているが。 「あんまりおまえが素直にしゃべったもので、魚支吾《ぎょしご》も、その漆離伯要《しつりはくよう》とやらも、さぞ張り合いがなかったことだろうさ」 「はあ——たしかに、がっかりした顔をされたようにも思いますが。それは、俺があんまり莫迦なもので——」 「だから、口の回る小ざかしい奴が使者として来たら、へこませてやろうと手ぐすねひいてたんだろうよ、連中は」 〈衛〉に送った〈征〉の使者が、耿無影《こうむえい》にさんざんに言い負かされている。このいきさつが中原に知れわたっているのも、魚支吾は承知している。使者の弁舌というのも一種の戦である以上、勝たねば意味がないと魚支吾も漆離伯要も思い知らされていたはずだ。〈征〉への使者は、〈衛〉にならって論理と理屈で武装して来るにちがいないとも思っていただろう。〈琅〉からの使者と聞いて、すわ、戦だと身がまえたところにやってきたのが徐夫余である。  肩すかしをくらわされて、さぞ怒っただろうよと、羅旋は笑った。  だが、使者にあたるわけにもいかない。夫余が彼らにさからったわけではないのだ。それどころか、彼らの知りたがる情報は十二分に提供してくれている。そのうえ、一国を支える知恵者でも謀士《ぼうし》でもない以上、殺しても〈琅〉に打撃を与えるわけではないから、無事に帰国させるより方法がない。 「だから、おまえは十分に役目を果たしてくれた。心配することはない」 「だったら、どうして——」 「いらついているか、か?」  自分でもわかっているらしい。 「そりゃ、おもしろくない。自分のための戦ならよろこんでやるが、他人のためなんぞ、だれが真面目にやる気になるか」  まして、魚支吾の得になることを、なんで俺が——というせりふは、口の中でつぶやかれたようだ。 「だが、仕方がない」  約束は約束だ。 〈乾《けん》〉との国境に兵を出し、〈容《よう》〉をはじめとする北方諸国の注意をひきつけるのが、羅旋の役目だった。  仕掛けるのは、簡単だった。  国境といったところで、杭《くい》の一本も打ちこんであるわけではない。川や分水嶺がその基準となるのが通例なのだが、〈琅〉の場合、他国と接しているのはたいてい、草原か草も生えない荒れ地なのである。〈衛〉との間がよい例で、こちらはそれでも戎族《じゅうぞく》の侵入に備えた防塁を目安として決着をつけたが、〈乾〉との間にはそれすらもない。  最初、侵入したのはたしかに〈琅〉の側である。  侵入といっても、いきなり兵をくりだしたわけではない。草を求めて国境周辺にまで足をのばしていた戎族の少年が、羊を追って〈乾〉の邑《むら》へ迷いこんだのである。戎族の略奪に神経をとがらせている〈乾〉の人間は、よってたかって少年を追いまわした。少年は無事に逃げ帰ったが、羊を奪われた。それを、少年は家長に告げる。家長が、〈乾〉の邑へ羊を返せと抗議する。邑長は、役人へ訴え出る——といった具合で、どんどんと話が大きくなった。もちろん、大きくなることを見越して、羅旋が仕掛けさせたことである。  最初に騒動が起きた邑の人間が、今、羅旋のかたわらを見れば、まんまとあざむかれたと気づくだろう。羊を奪われたはずの少年が、羅旋にしたがって馬を走らせる一団の中にいるのである。 「小参《しょうしん》、何が見える」  なだらかな丘の頂上で|※[#「馬+華」、第3水準1-94-18]《あかげ》を止め、羅旋は少年にまず、たずねた。  戦闘の中で助けたこの少年は、容貌からいって戎族の血をひくのはたしかなのだが、親も兄弟も知らなかった。おのれの名を知らなかったのも、生まれてすぐに捨てられたためらしい。拾われ養われた先で家奴《かど》として働かされ、その家の息子に兵の徴用が割り当てられた時に、当然のように身代わりとしてさしだされたのだ。  養家で便宜上、つけられた名があったはずだが、少年はけっしてそれを口にせず、羅旋も無理に訊かなかった。星の名をとって小参とつけ、それを十年も以前からの名のように呼ぶ。少年も、その名で呼ばれて命じられたことには無条件でしたがった。  少年は、馬の世話にたくみだった。あつかいにも、当然、乗馬にも慣れていた。羅旋は自分の|※[#「馬+華」、第3水準1-94-18]《あかげ》と、替え馬用の世話係として身辺におくことにしたのである。  彼とは別に、特に意図したわけではないのだが、羅旋の周辺には、彼の幕僚《ばくりょう》と呼んでさしつかえのない一団が形成されつつあった。徐夫余と、茣原《ごげん》を任された壮棄才の他に数人。皆、騎馬にたくみで、勇猛果敢な若者たちばかりである。この他に、時おり五叟老人の姿も混じることがある。  馬に不慣れな老人は、今も徐夫余のうしろに、襤褸《ぼろ》のようにしがみつきながらついてきていた。その後には、茣原から呼びもどされた壮棄才の暗い顔が続く。  羅旋にたずねられて、小参は替え馬の手綱をひきながら一団の前へ進み出て、鞍の上でのびあがった。 「——なにも」  丘の向こうも黄土の丘で、みわたす限り草も生えない荒れた土地が続く。晴れているのにぼうと空が暗いのは、黄土が風にまきあげられているからだ。 「なにも見えません」 「よく見ろ。地面じゃない、天だ」 「天——?」 「雲のようなものが、ほれ、わだかまっておるじゃろうが、正面の丘のすこし上じゃよ」  口をはさんできたのは、五叟老人である。片腕で徐夫余の腰にしがみつきながら、骨ばった片腕で天の一点をさし示す。  なるほど、おぼろに黄色い空の、そこらあたりだけがこころなしか暗い。 「雲気《うんき》じゃよ」 「あの雲が、どうか——」  少年はまだ不審な顔だったが、羅旋は、 「来たな」  かたわらに並んできた五叟老人にうなずいてみせた。 「何が来たんですか?」  とは、老人を背中にへばりつかせている徐夫余の質問である。彼も、けげんな顔つきをしていた。 「段大牙《だんたいが》が、出てきたのさ」 「公子が」 〈奎《けい》〉の民だった徐夫余が、一瞬、眉を寄せた。 「とうとう——」 〈乾〉と事をかまえる以上、血縁に連なる他の諸国がだまっているはずがない。〈容〉が援軍に来るのは必至だし、そうなれば、勇将として知られる段大牙が出てくる公算は大きい。直接に身近に仕えたわけではないが、旧主に刃を向けるのは、やはり気がひける。覚悟はとっくの昔につけているが、それでも徐夫余が鼻白んだのは無理もなかった。 「でも、何故、そうとわかるんですか?」  小参が、くいさがった。 「高さと、雲の形じゃな」  と、五叟老人が、ひとつ咳ばらいをしてもったいぶった。 「頭上に近ければ、四、五百里(一里=四〇五メートル)ほど先の動きをあらわす。あの雲は、低いが地平には付かぬから、千里から千五百里といったところか。雲の形が、こちら側が低くて、うしろの方が広がったように見えるじゃろう。あれは、こっちへ急行してくる証拠じゃよ」 「でも、別の国の軍かも」 「なに、他の奴があんなに急いでくるものか」  乱暴な論理もあったものである。だが、だれひとり——徐夫余でさえ、異議を申し立てなかった。 「〈乾〉にしろ〈容〉にしろ、一国ずつの数は少ないが、寄せ集まりになるとやっかいだぞ。それに、段公子は敵にまわすと、ちとやっかいなお人じゃ」  他人事《ひとごと》のような口調で、五叟がつぶやく。 「おまけに、耿淑夜《こうしゅくや》までついておるに相違ない。どうだ、羅旋、勝てそうかの」 「勝つ気があるのかと訊いてくれ」  不機嫌が、さらに不機嫌になった。 「それとも、勝つ必要があるのかとな」 「ここではよいが、兵たちのいる前でそんなせりふは吐かないでくれい」  将の発言は、士気にかかわる。  五叟が顔をしかめ、壮棄才が暗い顔を羅旋の馬に並べた。 「——前もってうっておいた手が生きていれば、こちらが思う陣形をむこうにとらせることは可能です」  めずらしく自分から口をきいた棄才に、小参がふりむいて目を見張った。 「勝ちますか?」  とんでもなく傲岸《ごうがん》な口調で、壮棄才は訊いた。だが、この場にいるだれも笑いもしなければ、莫迦にもしなかった。 「もうすこし——」  考えさせてくれと、羅旋が小さくつぶやいた。風が黄土の上をわたって、羅旋の髪を吹きなぶっていった。  風のむこうに、乗り越えなければならない運命がひとつ、待っていた。  相手の存在を意識していたのは、羅旋ばかりではない。大牙も淑夜も、将軍である羊角《ようかく》をさておいて、羅旋がどう出てくるかがもっとも気にかかった。 「暁華《ぎょうか》どのの話では、羅旋は〈琅〉国内で馬と騎《の》り手を集めていたとか」 「たかだか百騎ほどで、何ができる」  淑夜はまだ、感情を押さえていたが、大牙の方はいやな顔をかくさない。吐き出すようにいい返す。 「茣原の馬をあわせれば、五百はくだらないと聞きます」 「それにしてもたった五百だ。五百人、兵が増えたからといって、不利な戦況がひっくりかえせるものであろうか」  と、冀小狛《きしょうはく》も、大牙に加担する。  一軍は万単位である。大牙が今回、ひきいることになった〈容〉の兵は、急場の編成だが、それでも一万。〈貂《ちょう》〉が三千人出すといい、当事者の〈乾〉も八千をくりだしている。合計二万強。一方、〈琅〉の方も一万という報告が届いている。  中原の覇権争いに比べれば、微々たる数だが、水もなく作物もとれない土地をめぐっての争いにしては、大仰な数である。もっとも、この中の半数ほど——特に〈容〉や〈貂〉の援軍はなかば以上が義理と威嚇《いかく》のための出兵で、すべてが実戦に投入されることはまずないといってよい。 「相手は、羅旋です」  と、淑夜は大牙に注意をうながした。とはいえ、淑夜もわかっているのだ。羅旋を過小評価しているのではない。騎馬の速度と機動性は、皮肉なことに〈奎〉が滅んだ時にいやというほど身に沁《し》みている。ただ、赫羅旋と戦わねばならないのが、いやなだけなのだ。 「仕方がないでしょう」 〈乾〉は血縁につながる国である。〈乾〉伯・夏夷《かい》には恩義もある。〈乾〉が戦をするのに、〈容〉が知らぬ顔を決めこむわけにはいかない。万が一〈乾〉が敗れれば、それだけ大牙が因《よ》ってたつ力の基盤がもろくなるのだ。 「もしも——羅旋の騎馬軍が戦場へ出てきたら、どうする」 「失礼ですが、〈乾〉伯や他の方々では歯がたたないでしょう」  冷静に告げる淑夜に、冀小狛がくってかかった。 「五百騎で、万人が殺せるか」 「全滅の必要はありません。戦車の甲士《こうし》、特に左士《さし》だけを斃《たお》せば、あとは烏合《うごう》の衆です」  戦車一|乗《じょう》に、二十五人の兵が配属される。そのうち、甲士は三人。左士がこの二十五人の主人である。主人が討ちとられれば、他の甲士はともかく、農民から徴用された歩兵は逃げ散ってしまう公算が強い。いやいや徴用され、訓練もろくにしていない歩兵は、どうしても弱いのだ。  一万の軍で、戦車は四百乗。左士も四百人。騎馬の機動力を考慮にいれれば、五百人の騎兵で互角に戦える。 「もちろん、これは計算上の話です。馬は早いが、思うように戦うには騎《の》り手に相当な技倆《ぎりょう》が必要です。だいいち、五百騎すべてが羅旋と同様に騎馬に熟達しているとはかぎりません」 「ならば、どうする」 「羅旋の軍は、〈容〉軍で——というより、〈奎〉の軍でひきうけます」 「そんなことが、できるのか」 「なんとか、やってみるしかないでしょう。馬さえなんとかすれば——騎り手をたたき落とすことができれば、歩兵の数はこちらが上です。歩兵対歩兵なら、互角以上の戦ができるんですが——」  あとは地形と陣形、それに大牙の存在をどうやって、広い戦場であきらかにするかという問題——と、淑夜は広げた図面をにらみながら、あとのふたりにさし示す。  その冷静をよそおった顔を見ながら、ほんとうに淑夜がふっきれているのかと、大牙はうたがっていた。  淑夜にとって、赫羅旋は正真正銘の命の恩人である。大牙が羅旋と戦いたくない以上に、まだ繊弱なものを精神のどこかに残しているこの若者が、できるなら今回の戦を回避したがっていることはたしかだった。  だが、さすがの大牙にも今回は、淑夜の真意がうまく読めないでいる。どうやら、〈衛〉の耿無影《こうむえい》との対面が、淑夜を変化させてしまったらしい。  大きくなった——というのとは、少しちがう。強いていうならば、深くなった。 「悔いていないか」 〈容〉への帰途、大牙はそうたずねたのだ。無影に逢ったこと、〈衛〉にもどらなかったこと。無影が〈衛〉を簒奪《さんだつ》したいきさつを聞いたこと。そして、それを大牙に語ってしまったこと。  淑夜は何もかも、自分の兄が謀反をくわだてたことまで、すべて大牙に話して聞かせた。無影を弁護するつもりはない。まして、そのいきさつを天下に公表しようという気もない。だが、大牙が他人に話してしまうなら、それでもいい。 「ずるいかもしれませんが、どんな秘密にしろ、秘密を胸にかかえこんで一生をまっとうできる自信は、私にはありません」  狂わないまでも、いずれ精神の均衡をくずしてしまうだろうといった。その一方で、他人に話してしまうことで、淑夜の気持ちも表情もあきらかに軽くなった。  一方、大牙にとっては、無影の苦悩などしょせん、他人事である。もともと、磊落《らいらく》な性格である。他人の秘密を聞いたところで、それを自分の身にひきつけて苦しむ心配は、まずなかった。 「だが、耿無影は四年ものあいだ、その重荷を背負いこんできたわけか」  自業自得とはいえ、すさまじい精神力である。だが、淑夜はしずかに首をふった。 「他に、方法がなかっただけですよ。話す人間が——胸の底をさらけだせる人間が、周囲にいなかったんです」 「おまえだけが頼りだった、ということか」 「少し、違うと思います。理解でもないし、私が許すことを期待していたわけでもないと思います」 「無理だろう」 「ええ。偃《えん》氏が手を下したにしろ、無影が売ったにしろ——それは、問題じゃない。問題は——無影が承知していることなんですよ。自分が決して赦《ゆる》されないことをしたと知っていること、その上でなお赦されたがっていることなんです」 「だが、おまえはそうしなかった」 「いまさら、赦してどうなります」 「いまさら?」 「四年前——」  淑夜はそこで、はじめて自分の手を堅く握りしめた。 「四年前、私は決して赦さないと宣告してしまったようなものです。脚一本をひきかえに、無影の頬にそう刻んだんですよ」  その時の感触が、手の中によみがえる。薄らいだはず、なくしたかと思っていた感情が今になってこみあげてくる。 「もしかして——あの時に私は、無影の心を殺してしまっていたのかもしれません」 「だとしても、奴はおのれの行為の報いをうけただけだ」 「ええ、そのとおりです」  なぐさめるつもりでかけた大牙のせりふは、あっさりと肯定された。 「無影のとった手段がよかったとは、どうしても思えない。むろん、兄の莫迦な野望の犠牲になっていればよかったのだという気は、いっさいありません。でも、力で——武力でいっさいを解決した無影は、その味をおぼえてしまった。またなにか問題が起きたら、今度も最後は力で斬って捨てようとするでしょう。ああやって登用した若者たちだって、無影の意に添わなければ、あっさりと見捨てるような気がするんです。腐った枝を踏み折って、無影はさらに上へと昇りました。でも、それは枝が折れてしまった以上、下へおりることができなくなったからなんですよ」 「何のために——いや、奴は、いったい何をしようとしているんだ」 「昔、世の中を変えたいと、よく口にしていました」 「世の中か」 「能力のある者が正しく評価され、働ける世の中を、と。〈衛〉一国を手中にして、たしかにそういう仕組みを作ろうとしているようにも見えます。〈衛〉でうまくいけば——いずれ、中原の諸国すべてを作り変えたいのでしょうが——」  そこで、淑夜はいったん、ことばを切った。 「今の無影は——いってみれば、身体は生きていても心はとっくの昔に死んだ状態です。その無影が築く国とは、どんなものになると思いますか」  寿夢宮《じゅぼうきゅう》で逢った無影には、どこかなげやりな印象があった。いつ死んでもいい、いつ国や民を捨てて逃げ出してもかまわないというのは、一面では立派な覚悟だが、他方では虚無の面をも持っている。無影の心の中は、あの寿夢宮と同様の廃墟なのにちがいない。  理想も野望も、生への強い意志があっての話だ。虚無に陥った人間に、人間が幸福に生きていくための国が作れるとは、少なくとも淑夜には思えなかった。 「だが——」 「わかっています。その無影の精神《こころ》を殺したのは、私自身なんです。だから、私には責任があります。無影を止める責任が」 「あまり——自分を責めるなよ。おまえひとりの責任じゃない」  大牙は、それ以上、何もいえなかった。  これは、淑夜と無影、ふたりの間の話である。無影の秘密を聞いて、苦悩ひとつしない——する立場にない大牙には、淑夜の決心にも立ち入ることはできないのだ。  ただ、ひとつ救いがあるとすれば、往路にくらべ、その話をしてしまった後の復路の淑夜の挙措《きょそ》がひどく落ちついたことだ。 〈容〉にもどる路も、〈容〉から〈乾〉に向かう道すじもずっと強行軍であったにもかかわらず、終始冷静だった。さすがに疲れの色はかくせなかったが、糧食の手配や移送、兵の編成や行軍の道筋の検討など、てきぱきとこなしていった。 〈琅〉との戦は、通過点にすぎないと思いきったかのようだった。いずれ〈衛〉を、そして耿無影の前にたちふさがるために、その前に片付けておかねばならない雑事のひとつ——そんな印象だった。  無理をしていなければよいがと、大牙は淑夜の横顔を見ながら思っていた。  本気で相手にまわすには、淑夜も自分もまだ、羅旋という漢《おとこ》を知っているとはいいがたい。たしかに無影は客観的に見ても巨大な敵だが、だからといってその前の羅旋と〈琅〉が、与《くみ》しやすい相手というわけでもないのである。  冀小狛にたずねながら、戦車の陣形を図面に書きこんでいる淑夜の顔からは、気負いも焦りも、そして苦渋の色もない。それがかえって、気にかかって仕方がないのだ。 「——この布陣で、いかがでしょう」  図面を示されて、大牙はひとつうなずいた。 「とにかく、やってみるしかあるまい」 「では、冀将軍も——」 「どこまでやれるかは、わからぬが」  冀小狛も、無骨な顔をさらに緊張させてうなずいた。 「では」  と、淑夜は図面の布を手早くたたんだ。その手つきが、気のせいか鈍いように見えた。疲れもあるのだろうが、気も重いのにちがいないと大牙は思った。 「早く、休め。明日からは、眠るどころではなくなるぞ」  大牙が声をかけると、淑夜は目をあげてため息をついた。 「どうした」 「いえ、ちょっと、考えていたんです」 「何を」 「——あの画《え》を」 「画?」 「揺珠《ようしゅ》どのにお届けしたかったんですが。でも、戦場で羅旋に逢ったとしても、ことづけるわけにいきませんね」  こころなしか淑夜の表情が翳ったのは、この一瞬だけだった。  大牙たちが発《た》ったあとも、無影は十日ちかくも義京に滞在していた。  むろん、住まいは尤家《ゆうけ》が用意して、表向きは尤家にかかわりのある商人の一行ということになっている。四年前の大火は、もとの尤家の屋敷もふくめ、主だった建物を焼き尽くしたが、城内の周辺にはかろうじて残った家もある。規模こそ以前と比較にならないが、あらたに建てられたものもある。そういった家を手配するのは、尤家にとってはたやすいことだった。  大牙一行があわただしく夜のうちに寿夢宮を発ったことは、翌朝になって暁華《ぎょうか》から知らされたが、無影は無表情なままだった。  肝心の用件は前日のうちに片づき、満足したか不本意な結果に終わったかはともかくとして、淑夜とも再会を果たした。そのあと、段大牙がどこへ行こうと知ったことではない——。  たしかに理屈としてはそうだが、大牙がとってかえした理由は聞けばわかるはずだし、それが意味することが理解できない無影ではないはずだ。 〈琅〉が、理由もなく国境争いを仕掛けるわけがない。 「——〈征〉と結んだか」  その口調には、やはり、という感情がたしかに含まれているのを、暁華が聞いている。 「わざと、手を結ぶようにお仕向けになったのではございません?」  推測ではなく、皮肉である。 「よろしいのですかしら?」 「なにがだ」 「いつまでも、義京においでになって。お留守をねらう者は、多うございましょうに」 「——置いて帰るわけにはいかん」  だれを、ということばが抜け落ちていたが、暁華の耳にははっきりと聞こえたような気がした。 「|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》夫人のことなら、尤家が保証いたしますわ。もとのお元気な身体におもどしして、瀘丘《ろきゅう》までお送りいたしますから、ご心配なく」  |※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》連姫《れんき》は、一時は意識不明になる重体だった。むろん、ここまでの旅程が身体に障《さわ》ったのはまちがいない。もともとそう健康ではなかった上に、暑さ寒さを調節できる温涼車《おんりょうしゃ》を使っても、振動まではとり除くわけにはいかない。常の状態でない身体に、よいわけがないとは誰にでもわかる。 「なぜ、お連れになりましたの」  と、暁華が無影に詰めよったほどである。 「ご存知なかったのです。わたくしどもも、はじめて——」  班姑《はんこ》が、無影にかわって弁明した。 「お告げにならなかったのです。いえ、どうやら、ひた隠しにしておられたようで」 「それは——お気持ちは、わかるような気はいたしますけれど」  暁華は、首をふって嘆息した。無影が眼の隅からにらみつけたのを、胸を張って正面からにらみかえして、 「いずれ、こんなことになるのではないかと案じておりましたのよ。正直に告げてよろこばれるとわかっていることなら、何をおいても一番にご報告なさるでしょうけれど。それとも、およろこびになったとでも仰せになりますかしら?」 「——暁華さま」  班姑が、思わず袖を引いた。だが、暁華はだまらない。 「だいたい、陛下はものを仰せにならなさすぎるのですわ。女は——いえ、人は口に出していっていただくか、せめて文字にしていただかなければ、わかりません。そう、いいたいことの半分以上、おひとりの胸のうちに収めてしまわれては、だれも陛下のお考えなど理解できないのも道理。推《お》しはかって、あれやこれやと思い悩むしかございません。このたびのことだって、そのご心痛が影響しなかったとは、だれも申せますまいよ」  一気にまくしたてたのは、もしかしたら、無影が怒って何かいいかえすことを期待したのかもしれない。そうだとすれば、暁華の計画は失敗だった。  無影はなにひとつ、いいかえさなかった。  意識のない連姫のかたわらに、ただ、立ったまま、身じろぎひとつしなかった。視線こそ連姫の顔に向いているようだったが、果たしてその眸《め》にものが映っているのかどうか、暁華がうたがったほどだ。  病人の枕もとで騒ぐわけにいかず、休息をすすめても、無影は反応さえ示さない。さすがの暁華も音《ね》をあげて、班姑をつれて室の外へ出てしまった。だから暁華も、無影のつぶやきを聞いてはいない。 「躬《み》——俺には、人の親になる資格はない」  資格があるかどうかは別としても、無影がすぐ〈衛〉にとってかえすべきだと考える者は他にもあった。 「士大夫たちの間に、妙な動きがあるらしゅうございます」  無影が室の外へ出るわずかな機会をとらえて、商癸父《しょうきふ》が声をひそめて告げた。 「〈鄒《すう》〉の百来《ひゃくらい》将軍のところへ、頻繁に使者が通っているそうでございます。もしや、百来将軍が——」  春に事実上、占領下においた〈鄒〉の地を、無影は百来に預け、統治させている。無影が〈衛〉を簒奪した時、早いうちから支持を表明した老将軍を、無影はたしかに重用しているように見える。戦のおりには親衛兵を任せて身辺においているし、今回も名目はどうあれ、百来を信用して〈鄒〉に封じたようなものだ。  だが、見方を変えれば、百来は体《てい》よく国都から追い払われたともいえる。  それでなくとも、商癸父のような庶民出身の若者が、重要な役職につきはじめている。それも、旧来の地位はそのままにしておいて、あらたな職務や身分、機関を設置して若者らを登用するという巧妙さだ。正面きって既得の権益を奪われたのならば抗議のしようもあるが、これでは士大夫たちの苦情のもって行く場所がない。そして、不満は表にだせない分、陰にこもって密謀に走りやすくなる。  それがわからない無影でもあるまいにと、商癸父たちはあせっている。  無影の不在は、いちおう伏せられているが、〈衛〉の士大夫たちにまったく知られずにすむわけがない。長期の留守は、彼らの陰謀にとって、絶好の機会ではないか。万一、百来が士大夫たちを語らって、〈鄒〉で謀叛でも起こしたらどうなる。無影不在の瀘丘《ろきゅう》など、あっという間に陥《おと》されてしまう。それは、商癸父たち、庶民出身の官吏たちの前途が閉ざされること、彼らが| 政 《まつりごと》にたずさわる機会が永遠に失われることだ。 「今からでも遅くはございません。すぐに瀘丘にもどり、不埒《ふらち》な輩《やから》をとらえるべきだと存じます」 「まだ、早い」  それだけが、無影の返答だった。  どうやら、帰国の遅延の原因が|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》連姫の病だけではなさそうだということだけは、おぼろげながら商癸父にもわかってきていた。だが、彼にはまだ、明確には推察できなかった。 「——何を、待っておられます」  その問いには、冷ややかな視線が返されただけだった。わからぬかと訊いているようでもあり、おまえに話す必要はないとつき放しているようでもあった。  一言もかえせないまま、癸父はひきさがらざるを得なかった。その背にむけて、無影が冷淡な、不満気な視線を送っていたことを、彼は知らなかった。 「奴ならば——」  ここにいない若者の反応を、無影は考えていた。ぶざまに脚をひきずりながらいっこうに恥じるようすもなく、まっすぐに無影の目を見返してきた若者なら、なんと答えただろう。  無影の真意を察知してくれるだろうか。それが無影自身にとっても、さまざまな意味でつらい選択であることを理解してくれるだろうか。それとも、せめて思いとどまるように説いてくれるだろうか。説かれて、無影はそれにしたがえるだろうか。  だが現実には、無影自身より他に、この場にはいなかった。計画をするのも選択をするのも、実行するのも、すべて無影ひとり。だれに任せるわけにもいかない。  ひとりだという現実の重圧に、しかし無影はじっとくちびるを噛みしめて、立ち向かっていた。  苦汁をなめていたのは、無影だけではない。〈鄒〉の地にある百来もまた、老いた額に深い皴《しわ》を刻んでいた。 「伯父上——。悪い報《し》らせですか」  身辺に常に控えている子遂《しすい》が、百来の手の中の書簡を不安そうにみつめながら訊いた。 「悪い——そうだの。これほど悪い書面というのも、珍しいだろうの」  戦場で一生を送ってきたいかつい顔に、疲労の色が濃い。 〈鄒〉の統治の任について以来、心労が重なっていることは子遂も承知していた。文武双全《ぶんぶそうぜん》——外に在っては将、内に在っては相がつとまるだけの才が、卿大夫にはあって当然とされている。百来もまた若いころ、学問はひととおり修めているが、人間、得手不得手というものもある。まして国主が無責任に逃亡したあとの異国の地を平穏に治めていくには、いいしれぬ苦労がつきまとうものだ。  だが、百来は子遂にむかって、首をふってみせた。 「何を考えておるのやら、国許《くにもと》の連中は」 「——瀘丘で、なにか」 「ここへ、押しかけてくると申しておる」 「〈鄒〉へ、何をしに」 「腰抜けの儂《わし》を奮起させるためであろうよ」 「伯父上を腰抜けよばわりとは、無礼な」 「いたしかた、あるまい。連中にしてみれば、是非にも儂を巻きこみたいのだ」 「——例の、件ですか。〈鄒〉で、事を起こそうという」  子遂は声をひそめ、周囲をうかがう。百来も、他に人影がないことをたしかめてから肯首《こうしゅ》する。 「今、事を起こしてどうなるというのだ。陛下に不満があるとしても、他にとってかわって〈衛〉をまとめていける者などおらぬのに」 「伯父上を推戴《すいたい》するつもりなのでしょう。その方たちは?」 「儂に、一国が治められるものか。たとえ〈衛〉はまとめられても、この先、〈征〉の魚支吾に伍《ご》していける器量も、寿命もないわい。そもそも、今、騒ぎ立てている者は皆、陛下に封地や位を安堵《あんど》されて、はいつくばって感謝した連中ではないか。いや——」  首を、今度は横に振る。 「他人の悪口はいうまい。儂とて、連中を裏切っておるのだ。——陛下がすべてを承知しておられる、扇動者の名まで知りぬいておられると知りながら、連中には教えてやらぬのだからな」 「——教えられぬのです。伯父上のせいでは」 「おなじことだ。儂は陛下を裏切れぬ。〈衛〉を救うのは、耿無影しかないという気持ちは今でもかわらぬし、裏切ってもいずれ活路はないのだ。とにかく、下手な手に乗らぬよう説得するしかあるまい。儂が瀘丘にもどるわけにはいかぬし、かといって〈鄒〉に来られてしまうのもまずい。とにかく、こちらへは来ぬように、書簡を遣るしかあるまい。筆を——」  命じながらも、百来は嘆息を止められなかった。悪い予感が、胸から去らない。長い夜がこれから、どれほど続くのか、老人には見当もつかなかった。      (二)  戦場に、旗が立った。  描かれている文字は、ただ一字。 『奎《けい》』  三年前に一度、地にまみれ、消えた旗だった。あざやかな朱赤《しゅあか》の旗が風の中にひるがえるのを見たとき、冀小狛《きしょうはく》などはあやうく泣き出すところだった。 「この旗が無事だったとは。儂が生きているうちは、戦場では二度と見ることはないかと思うておりましたぞ」  百花谷関から〈琅〉に逃れる時に、唯一手元にのこった旗を、大牙みずからが降ろし、わずかな荷の底に深く秘めていたのだ。だから、色は褪《あ》せていないものの、近くでよく見ればあちこちに繕《つくろ》った跡がわかるような代物である。  だが、さすがの大牙もいつものへらず口の影をひそめさせ、神妙な顔つきで見あげていた。  この旗のもとで戦をした経験はある。だが、それは一公子、一将軍としての戦で、責任にも権限にも限界があった。いいようによっては、父・〈奎〉伯のもとで、好きなように暴れていればよかったのだが、今回は違う。  この旗の主として戦うのは、これが大牙にとって初めてなのである。 「肩のあたりが重い」  真剣な表情で、ほんとうに肩を押さえた。 「父上と、兄者たちとを載せているようだ」 「おふた方が、護《まも》ってくださいますよ」  いった淑夜もまた、緊張の色はかくせなかった。かくしている余裕もなかった。  大牙の戦車のすぐかたわらに、淑夜は馬でしたがっていた。騅《あしげ》のたくましい馬は超光《ちょうこう》という名で、羅旋からゆずられたものだ。  戎服《じゅうふく》の上から軽い甲《よろい》を着こみ、伝令の小者《こもの》と同様の姿をした淑夜を、超光はよろこんで乗せた。戦場に出るのがうれしいのか、それとも彼方の敵陣にいる元の主人の存在を感知してのことかと、淑夜は複雑な思いにとらわれた。この利口な馬なら、それぐらいのことは十分にあり得るのだ。逆に、この目立つ毛色の馬が羅旋の注意を引くことも、承知の上だ。騎《の》り手が淑夜であることも、羅旋にはすぐにわかるだろう。めったな者を、この馬はその背に乗せない。 「だいじょうぶか」  おそらく、ひどい顔色をしているのだろう。大牙がたずねてくれたのに対して、淑夜はこわばった笑顔を返した。 「戦は、やはり苦手です」  血の匂いや死の恐怖は、何度体験しても慣れるものではない。なるべくなら、戦などはしたくないし、戦場にも出たくない。それが、淑夜の本音だった。 「でも、苳児《とうじ》さまが、きっと勝てるといってくれましたから」  大牙の姪、士羽《しう》の忘れ形見の苳児は、当年七歳。生い先の楽しみな花のような少女は、癇《かん》の強い一面をもっており、時おり奇妙なことをいいだすことがあった。  彼女は〈容〉伯・夏弼《かひつ》の許婚者《いいなずけ》と決まり、淑夜も傅育《ふいく》の任からはずれたが、ふたりとも大牙の屋敷内で暮らしており、苳児はあいかわらず淑夜にまつわりついていた。その苳児が、義京からもどりまた戦へ出ていくあわただしい間に、大牙と淑夜の顔を見て、 「よかった。おもどりくださいますのね」  もどってくれたのか、ではなく、もどってくれると未来を予言するようなことを口にしたのである。 「戦に行くのだ。遊びにいくのではないぞ」  大牙は苦笑したが、苳児の面倒を三年間、見てきた淑夜はもうすこし真剣にこのことばをうけとめた。 「天命《てんめい》ははかりがたいといいますが——苳児さまにはおわかりになりますか?」 「叔父上さまも淑夜も、ご無事にちがいありません。おもどりになった後に、大変なことが起きるのですもの」 「それは、どういう?」 「わかりません」  あどけない顔でかぶりを振った。 「わかりませんけれど、どうぞ勝ちすぎませんよう」  彼女にも、自分の確信が奈辺《なへん》から来るのかわからないのだ。大人の淑夜たちが理解できないことを、七歳の少女が明確に分析できるわけがない。それでも、淑夜も大牙も、苳児のことばに勇気づけられてきた。  大牙が、右手を額の上にかざして遠くを臨んだ。 「来るぞ」  天と、なだらかな黄土の地平とのあいだに、ぽつんと黒い染《し》みのようなものが現れたかと思うと、またたくうちに広がった。 「主公《との》——!」  隣の戦車から、冀小狛が逸《はや》った声をあげたが、大牙は制止した。 「まだ、動くな。狼煙《のろし》だけを送れ」  命を受けて、兵卒が陣の後方に積みあげた草の束に火をかけた。暦《こよみ》の上で季節は冬にはいり、風は乾燥している。枯れきった草束に火がまわる。その上に兵士たちが灰色の塊をほうりこむと、白い煙がもうもうとたちのぼりはじめた。 「両翼が動きます!」  報告が飛んだ。  淑夜は、大牙に〈奎〉の旗をかかげさせた上で、〈容〉軍はその後詰めの守りに置いた。〈奎〉の両翼には、〈乾〉〈貂〉他の諸国の混成軍を国ごとに分けて配置した。この戦の本来の当事者は〈乾〉伯なのだが、説きつけて左翼にまわらせた。おそらく〈琅〉軍の主力となる羅旋の騎馬隊を、まっすぐに大牙のもとに誘導するためである。 「これで来なければ、私がおとりになりますよ」  超光の背の上で、淑夜はこわばった微笑をうかべた。 「死ぬなよ」 「死にませんよ。やることがのこってますからね」 「来ます!」  染みが広がるように、〈琅〉軍の蹴たてる砂塵が天を覆い、地に広がる。その中央から、槍のように突出してくる一団があった。その速さが、尋常ではない。そうと見てとって、 「前進——ただし、ゆっくりとだぞ」  大牙はようやく、冀小狛に命じた。  旗が動きはじめる。風はわずかだが、大牙たちの方が風上だった。風を見て、大牙が弓に矢をつがえた。  青い軸に赤い矢羽。あいかわらず、派手な矢だが、軸には何も彫られてはいない。今の大牙は名のるにふさわしい名を持っていない。また、名など彫りつけなくとも、相手には矢の主がわかるはずだ。  剛弓を満月のようにひきしぼり、戦車の振動とおのれの呼吸とを慎重にはかって、一瞬、息を詰める。  次の瞬間、矢は不気味なうなりをたてながら猛禽《もうきん》のように飛んだ。  両者の先頭間の距離は、まだたっぷり五、六里(一里=四〇五メートル)はある。大牙は、五層に重ねた革甲を射抜くほどの膂力《りょりょく》の持ち主だが、もちろんこの距離では相手方に届くはずもない。  これは殺傷のための矢ではなく、鏑矢《かぶらや》である。威嚇《いかく》のための矢であり、この場合は別に味方への合図もかねていた。 〈奎〉の旗の進み方が、さらにゆるやかになる。それに合わせて、両翼の旗の群れも〈奎〉の旗めがけて収縮をはじめた。  両翼の軍だけが、速度をゆるめない。結果として、突出してくる〈琅〉軍の一部を、つつみこむようなかたちとなった。 「うまく、いったか」  ほぼ停止した戦車の上で、大牙は車をたたいてつぶやいた。  馬は脚が早く、背後に続く戦車の一団とはどうしても速度が合わない。といって、戦車の行動に合わせていては、騎馬の持つ速度と機動性が失われてしまう。  馬が出てくるならば、おそらくその速度を生かし、騎馬隊だけで一撃離脱をねらってくるだろうと淑夜は考えた。  数の上でまさっている相手を倒すには、できるだけ無駄な戦闘は避けて、狙いを相手の主力軍一点にしぼりこむのが常套手段だ。勝てないまでも、五分の戦にもちこむことが可能だからだ。馬ならば、相手の戦車にはばまれることなく主力に到達し、打撃を与えることができる。運がよければ、撤退する時の被害も最小におさえられる——。  自分が騎馬を使うなら、どうするかと考えたあげくの結論だった。その上で、淑夜は主力をおとりにしておびきこむことを考えたのだった。  いくら馬の機動性が高いといっても、四方から包囲され、矢を集中して射かけられれば、打撃をうける。全滅は無理だとしても、戦力としては役に立たなくなるところまで、たたけるだろう。そのために、弓矢を持たせた歩兵を増やしている。戦車の陰から、彼らに射かけさせるのである。  遅れて到達してきた戦車隊は、余力で——たとえば、背後に温存しておいた〈容〉軍だけで、互角以上の戦いができるはずだ。騎馬隊がたたかれてしまえば、戦意を失う可能性も出てくるだろう。  羊角という〈琅〉の将軍を淑夜は知らなかったが、人から聞いたかぎりでは勇将だということだった。個人としては勇猛果敢だが、けっして無理はしないというのである。  淑夜のたてた基本の案に、さらに大牙と冀小狛が検討をくわえ、〈乾〉伯たちの承認も得た。自分ひとりの承諾で実行に移せない繁雑さに大牙はいらだったが、とにかく策どおりに布陣され、しかも思うとおりの展開になりつつあった。  大牙が、瞬間、勝ったと思ったのも無理はない。ただし——〈琅〉に対しての勝利だったのか、それとも、自分たちは情報も対応策も持たなかったくせに、もったいぶってしぶしぶと淑夜の策を容れた〈乾〉伯たちに対しての凱歌《がいか》と、どちらだと思ったのか。大牙にも、判別はついていなかっただろう。  だが。 「しまった——」  淑夜がちいさく叫んだのは、次の瞬間だった。 「どうした」 「数が——!」 「なに?」 「馬の数が少なすぎます。もしや、逆手《ぎゃくて》を取られた——」  超光が、激しく足踏みをした。  大牙も、あらためて手をかざして土煙の方向を見た。埃の立ち方からいって、すくなくとも三百騎は来ると彼も見ていたのだが——。  黄塵の間に今、視認できるのは、せいぜい百騎ほどだ。 「どういうことだ!」 「わたしたちの脚をゆるめるための、おとりだったんです!」  叫びながら、淑夜は超光の腹を蹴った。 「主力は馬じゃない。まだ、戦車です。羊角将軍の軍です。このままでは、〈乾〉伯か〈貂〉伯の軍が背後から襲われることになります! 急いでください!」  当初、予想していた速度より、羊角の軍が速いことを淑夜は見てとっていた。 (何故——) 「人の数だ!」  淑夜より目のよい大牙が、先にその理由をさぐりあてた。いや、この距離の上に、走りだした車の上からのことだ。見たわけではあるまい。 「車の上の人間を少なくしたんだ。三人より、ふたりの方が軽いし速く走るわけだ!」  その声を背で聞きながら、淑夜はくちびるを噛んだ。  羅旋の手を読もうなど、なんという思いあがりだったことか。みごとに、紙一重上を読まれて、このざまだ。 「騎馬兵にはかまうな! 道を避けろ!」  逃げろとはいえず、淑夜はそう、矢継ぎ早に指示を出す。 「全速で、正面の戦車に当れ!」 〈奎〉と〈容〉の旗をひるがえす一団に、指示をひとわたり伝えると、淑夜は先行した大牙の車を追った。超光の脚は、楽々と追いつく。 「来る!」  どちらの口からもれたつぶやきか、わからない。ただ、車のたてる轟音と、馬蹄の地響きとが正面からぶつかろうとしていた。  一頭一頭に乗る男たちの顔が、判別できるようになり、さらに大きく迫ってくるのを淑夜は、夢のように見ていた。  よく見ると、一頭ずつの馬が、うしろに奇妙なものをひきずっている。束にした草をくくり長い縄で鞍に結びつけ、地面を擦《す》るようにしているのだ。砂塵をわざとたてて、実数よりも多くみせかけていたのだ。そういえば羅旋が昔、竈《かまど》の数で同じように目くらましを計ったことを、淑夜は頭の隅で思いだしていた。  いや、思いだしたのは、その顔がすぐ目前に現れていたからかもしれない。 「——羅旋!」  騎馬の一団の先頭、|※[#「馬+華」、第3水準1-94-18]《あかげ》のたくましい馬に乗った大柄な漢が、こんな場合だというのににやりと笑ったのを、淑夜も大牙もたしかに見たと思った。  大牙が、手早く矢をつがえるのを、淑夜は目の隅で見た。 「大牙さま!」 「止めるな!」  大牙は、かすかに笑っていた。 「どうせ、当ってくれるような漢じゃない」  自慢の剛弓をひきしぼる。  止めようにも、その暇がなかった。  ひょうと、矢が放たれる直前、 「散れ——!」  風にさからって、よく通る声が淑夜たちの耳にとどいた。戦場の音の中で、それは奇跡のようにあらゆる音を圧したのだった。  命令一下。  それまで密集していた馬の群れが、術を解かれたようにばらばらになった。  一見、算を乱して逃げたように見えて、実はそうではない。馬同士の間隔も方向もきれいに均等に、統御されている。おそらく、号令があればふたたび、一箇所に集まることもできるだろうと思わせる動きのよさだ。  その、統制力に淑夜は粛然となった。  大牙たちの正面の視界が急にひらけた。馬が、それぞれの草の束を切り落としていったのだ。  大牙の矢は、だれもいない空間を空しくつらぬいて、砂塵のおさまりかけた地面に突きたったようだった。  騎馬兵のほとんどは、戦車群との激突を避けて、道をゆずったかっこうとなった。ただ一騎、|※[#「馬+華」、第3水準1-94-18]《あかげ》だけが進路を変えず、大牙の戦車めがけて突っこんでくる。  その手には、いつ矢をつがえたのか弓が握られている。  淑夜が、超光の腹をさらに蹴った。腕力でかなうわけはないが、少しでもねらいを逸らせられればと思ったのだ。  羅旋の目の緑色が見えたと思った。  だが——。  羅旋は淑夜が速度をあげる前に、無造作に右手を離した。  矢は、逆風にもかかわらず、あざやかな弧を描いて大牙の戦車をめざした。そして、車の右士《うし》のかまえる戈《ほこ》の、その細い柄に低いうなりとともに突き刺さったのである。  右士は、〈奎〉からしたがってきた歴戦の士だったが、それでも悲鳴を押さえることができなかった。大牙ですら、あっと叫んだ。  そのすぐ脇を、羅旋の|※[#「馬+華」、第3水準1-94-18]《あかげ》は風のようにすりぬけていった。  一瞬のことだった。 「悪かったな」  そんなことばを、聞いたのか、それとも口の形の動きで察したのか、あとあとまでも淑夜は確信がもてなかった。  ただ、その時ふたたび羅旋が笑ったことだけはたしかだった。悪意も敵意もなく、純粋に知恵くらべをして勝ったことを誇る笑顔だった。  避けきれず馬蹄にかけられる歩卒が、いくらかいたようだった。むやみに射かけて、馬上から反撃された者もいた。が、襲来の速度と威圧感からすると、拍子ぬけするほどあっさりと、騎馬の群れは戦車の間をすりぬけていったのである。  大牙たちに、その後を追う余裕はなかった。  羊角ひきいる〈琅〉の戦車軍が、〈乾〉伯の軍の斜め後方から接触しようとしていたのだ。  歩卒は、背後からの襲撃に気づいてすぐにとってかえせるが、戦車の反転は時間がかかる。  戦には機《き》というもの、勢《せい》というものがある。  たとえ反転が襲来に間に合ったとしても、不意をつかれた焦燥は、不利にはたらく。また、まっすぐ加速してきた軍とは、勢においてくらべものにならない。  背後から、大牙が〈奎〉の旗をなびかせながら乱入してこなかったら、全滅はしなくとも、〈乾〉伯軍の戦車の半数は、動けなくなっていただろう。 [#挿絵(img/04_183.png)入る]  大牙の弓だけでも、〈琅〉の戦車、十台以上が御者を失い、離脱していった。  大牙の予想どおり、車にはふたりしか乗っていなかったのがさいわいした。御者が倒れた車は、のこりのひとりが手綱をとるしかない。そうなると、戦いにまわす手がなくなるのだ。  それにしても、その離脱の速度も、大牙が目を見張るほど早かった。 「——遊ばれたような気がする」  くちびるをきつく噛みしめながら大牙がつぶやいたのは、その日も暮れなずむ頃、〈琅〉の軍が二十里(一里=四〇五メートル)以上の遠方へ退《ひ》いたことを、物見の者が確認したあとだった。  一日の軍の移動距離は、ほぼ三十里ほどが常識である。〈琅〉軍に常識は通用しないと思いしらされた直後だが、この距離ならばすくなくとも夜襲の心配はないと見て、大牙も淑夜もほっと肩の力を抜いたのだった。  相手が先に戦場から退いたのだから、味方の勝利だといってもいいのだろう。  被害も、騎馬隊に接触した〈奎〉と、羊角に不意をつかれた〈乾〉伯の軍にわずかに出ただけだ。  だが、 「これが、勝ったといえるのか」  大牙は、いつもの陽気さをひそめて、淑夜に毒づいた。  相手も、ほとんど打撃を受けずに逃げていった。すくなくとも、騎馬隊は馬も人も、まったくの無傷だったはずだ。戦車も、車軸が壊れた一台がのこされたきりである。 「そもそも、これが戦か」  淑夜を責めているのではない。だが、淑夜は責任を感じていた。 「もっと、調べておくべきでした。尤家の話に頼るのではなく、自分で〈琅〉の内情を把握するべきでした」  馬を乗りこなすということ、羅旋のように馬上で自在に武器をあやつるということが、どれだけ困難なことか。また、人を乗せる馬を育てるのに、どれだけの時間と手間が必要か。  淑夜は身体で知っていたつもりでいて、なおかつ、羅旋の手腕を過大評価していたのだ。羅旋なら、短期間にそれだけの騎馬戦力を養成してきても不思議はないと。  だが、人も馬もまだ、戦場で使いものになるまでには至っていなかったにちがいない。  おそらく、五百頭という尤家の情報は正しかったのだろう。だが、数と実態とが合わなかった。合わないのを承知の上で、羅旋はそれを逆手にとり、尤家と淑夜とをだましてみせたのだ。  戦がはじまることを予測し、淑夜が相手になることを想定し、その思考を正確に読んで周到な準備をする。  戦をする前から、大牙も淑夜も敗れていたのだ。  羅旋の方が、一枚も二枚も上手だったと淑夜は認めざるを得なかった。  もっとも、羅旋がそれを聞けば、大笑いしたことだろう。 「あたりまえだ。年期がちがう」  淑夜も、くちびるを噛みしめていた。  やらねばならないことと、やれることとはこれほどにも違う。その差異を埋めるためのこれからの前途を考えると、暗澹《あんたん》たる思いに沈まざるを得なかった。  ——ちょうどそのころ、羅旋はたしかに笑っていた。  ただし、淑夜が想像したようなものではなく、微苦笑といったあいまいな表情だった。 「かろうじて、負けなかったな」 「儂は肝が冷えたぞ。あの布陣を見た時はな」  後方に待機して、一部始終を見ていた五叟老人が、強い口調で応じた。笑いごとではないぞといいたいらしかった。 「まったく、淑夜め。よく考えたものではないか。下手にまっすぐつっこんでいたら、今ごろおまえさんは針鼠の骸《むくろ》になっていたところだぞ」 「そんなどじ[#「どじ」に傍点]は踏まん」  とはいったものの、 「まあ、多少はほめてやってもいいか」  しぶしぶ、つけくわえた。 「儂をつれていってくれれば、確実に勝たせてやったものを」 「行って何をする。霧を起こすか、雨を降らせるか。どちらにしても、不要だ。勝つ必要はない」  これは、〈琅〉のための戦ではないのだ。とすれば、ひとりでも死傷者を減らすのが肝要。勝利など、勝って傲《おご》る連中にくれてやればいい。  だが、 「どうだかの」  五叟は、わざとらしく首をかしげてみせた。 「それは、おぬしは一度や二度負けても、如白《じょはく》さまの信頼は変わるまいよ。だが、兵の士気というやつも考えてやらねば」 「…………」  どうやら、痛いところを衝《つ》かれたようだ。 「今回はいたしかた、ないがの。そのうち、本気で勝つこと、それも文句なしの大勝利というやつをしでかしてみせることを考えた方がよいぞ。むろん、そうなると被害軽微というわけにもいかなくなる。そのかねあいを覚悟しておかねば、いくらおぬしでも、痛い目を見ることになる」 「たまには、まともなことをいうじゃないか」 「たまには、の」  五叟老人は、にやりと歯を剥きだしたが、すぐに真顔にもどした。 「実際の話、笑い話ではすまなくなるかもしれぬぞ。ことに、下手に中途半端に大牙を勝たせてしまったのは、まずかったかもしれぬ」 「うむ——」  羅旋は、さからわなかった。  ふとい腕を胸の前で組み、ついさっきまで戦場だった空をにらんだ。  その胸のうちを、五叟老人は遠慮なく代弁した。 「あの公子とは、まともに戦いたくないの。淑夜ともな。だが、天の意志というやつは、儂《わし》ら凡人にははかりがたいのもたしかじゃ。——まあ、いずれを相手どるにしても、楽に勝たせてもらえそうにないがの」      (三)  日時は少々、前後する。 「陛下——」 〈琅〉にさしむけてあった間者《かんじゃ》の報告をたずさえて、禽不理《きんふり》がやってきたのは、日が落ちてまもなくのことである。 「〈琅〉と〈乾〉の戦、思惑どおり進んでおるようでございます。おそらく、数日のうちに、かならず戦は行われようかと」  上座の筵《えん》のすぐ前にうずくまり、口早に告げてきた。魚支吾は鷹揚《おうよう》にうなずきかえすと、逆に問うた。 「〈衛〉のようすは」 「——|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]利器《しんりき》の書簡が効を奏し、耿無影に不満を持つ者らが〈鄒〉に集まりつつあります。〈征〉がうしろだてになると聞くや、小躍りしてふたつ返事をよこしましてございます」 「|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器か——」  皮肉な笑顔が、魚支吾の端正な面をよこぎっていった。 「〈容〉を逃げてきたのをひろうた時には、そなたは反対したが、こうしてみると役には立ったではないか」 「は——。しかし」  と、禽不理はそこで口を閉じることで、不満を表明した。 「安堵せよ。長く使う気はない。それで、〈鄒〉は」 「われらが行けば、即、〈鄒〉におる者らが、城門を開くこととなっております。問題は、〈鄒〉をまかされておる百来将軍の腰が重いことですが——もう一度、じかに説得をして諾《だく》といわねば、亡き者にする覚悟をつけておりますそうで」  魚支吾たちは、〈衛〉の国都・瀘丘に耿無影の姿がないことを察知している。その理由もほぼ推察している。 〈衛〉という国は、無影ひとりの手腕で保《も》っているようなところがある。無影の不在は、〈衛〉をおびやかす絶好の機会だった。  もっとも、これが無影の罠であるという疑いも、魚支吾は捨てていない。隙があるとみせかけておいて、見えないところで手を打っておくのは当然の処置だ。魚支吾が無影の立場なら、かならずそうする。  そう考え、〈衛〉国内をずいぶんと探らせたのだが、はっきりとしたことはつかめなかった。  瀘丘まで攻めこむのは、時間もかかる。〈衛〉全体を支配するのも、同様である。無影に不満を持つ士大夫層を扇動して、瀘丘で叛乱を起こさせるのは簡単だが、無影が失政をしていない現在、〈衛〉全体を彼らに同調させるのは困難と思われた。  ならば、下手に深入りをして罠にはまってもつまらない。  魚支吾は禽不理を相手に協議した結果、〈鄒〉一国を奪回することのみを、今回の目的とすることにした。 〈鄒〉が〈衛〉の支配下にあるかぎり、新都《しんと》が危険にさらされる可能性も高い。ならば、とりあえず新都を安全にするだけで、今回は満足しよう——。 「では、出陣は明日とする。さっそく、ふれてまいれ」 「すでに、支度はさせてございます」 「兵にではない。孤《こ》の随身《ずいしん》どもにだ」 「——陛下、御みずからおでましになられる必要は」  禽不理は、渋い顔をしてことばじりを濁した。 「たかだか〈鄒〉のような国ともいえぬ小領を攻めるのに、さほど時間も兵力も要りますまい。おでましになるのは、かえって陛下のご威信を傷つけることになるのでは」 「不満か。手柄がたてられぬのが」 「そのようなこと、申しあげておるのではございませぬ」 「太医《たいい》どもに、また何かいわれたか」 「——お身体の具合がまた、おもわしくない旨《むね》はうかがいました。ですが、是非にも陛下のご出馬が必要ならば、陛下がお厭《いと》いになっても、われらの方から乞うてご出馬いただきます。このたびは、小戦ゆえ——」 「小戦ゆえ、手を抜くような真似はしたくないのではないか」 「陛下——」  正直、禽不理には魚支吾の意図が理解できないでいる。  政の一切の決裁をおこなうのは王としての当然の責務かもしれないが、戦は武人にまかせておけばよいのではないか。  自国の命運を賭ける戦ならば、主の姿がなければ士気にかかわるが、一万そこそこの出兵でかたのつく戦にまで全力を出す必然性は、まったく感じられないのだ。  あと考えられるのは、魚支吾の見栄か。  耿無影は、文弱といわれながらも陣頭に立ち続け、しかも勝利をおさめ続けている。  魚支吾は年齢こそかなり上だが、若いころから武人としても名を馳せていた。それが戦を避けたとあっては、名誉にかかわる——。 (それとも、焦っておいでなのだろうか)  今年、魚支吾は四十四歳。もうすぐ、衷王《ちゅうおう》がみまかった年齢になる。頑健な者は六十歳前後で戦場に立つ例も少なくないが、ふつうはあと十年足らずで老人とよばれ、隠居の身となる。  十年は、覇王の夢を見るのには短すぎるのかもしれない。  まして、期待した嗣子《しし》をふたりまでも失い、あとに残った子らには、覇《は》を唱えつづける器量の有無が疑われる状態では、焦燥もやむを得ないかもしれない。  だが、禽不理らにしてみれば、今、無理をして王に倒れられては、覇者も中原の統一も水泡に帰す。  力ずくでも止めるつもりで身がまえた時、侍僮《じどう》の声が室の外から流れこんできた。 「禽不理将軍に、新都からの使者でございます」 「新都——?」  反射的に身を硬くする禽不理に、魚支吾の鋭い視線がつき刺さる。 「何ごとだ」  新都の漆離伯要《しつりはくよう》から、禽不理に書簡があてられるのは、不思議な話ではない。新都の建設に関わることすべてを、禽不理を通して報告させることにしたのは、魚支吾本人だ。だがこの夜分、しかも御前にまで追いかけてくる書簡とは、ただごとではない。 「見せるがよい」 「陛下——」  せわしなく伸ばされた手に、禽不理はしぶしぶ、竹の簡《かん》を革《かわ》でつらねたものをさしだした。 「上奏か——そういえば、申すことがあるからといっていたが。書簡は、これがはじめてではないな」  文面をさらりと読んで、支吾はさらに眼を光らせる。 「禽不理」 「それがしがさし押さえておりましたのは、これが御為にならぬ建策と判断いたしましたからでございます」 「太学に、庶民の入学を認めよとある。それが何故、為にならぬ」 「秩序が乱れまする」 「才能ある者を教育し、用いるのが、どうして秩序を乱すことになる」 「〈衛〉をご覧くださいませ」  短い返答だったが、これは効き目があった。 「才ならば、〈征〉の卿大夫の中に十分におりまする。〈征〉がこうして富み栄えているのが、なによりの証拠。むやみに庶民を登用するのは、その卿大夫の才を軽んじることになりまする」 「だが——」 「〈征〉は、刑学を国法としてまいりました。刑学は、秩序を重んじる学問でございます。秩序とは、人がそれぞれに課せられた本分を完《まっと》うし、他を侵さぬこと。庶民は農工にいそしみ、租税を納めるのが本分。我ら卿大夫は、政を司《つかさど》り、一朝ことある時に生命を的として戦うのが本分。ただ、座して徒食しているのではございませぬ。それが、庶民が政に口をはさむようになれば、生命を賭しておのが本分を守ろうとする卿大夫はいなくなりましょう」  懸命になってかきくどく禽不理をさえぎって、 「わかった」  また、短い返答が支吾の口から出た。何かを断ち切るような重量のある声だった。 「この件は、その方にまかせる」 「では、却下ということでよろしゅうございますな」 「任せるといった。行け——」  下がれという身振りも、はっきりと加えた。 「では。ご出陣も、承服いたしかねますぞ」 「それも、わかった。早く行け」 「は」  魚支吾の顔が、灯火の影になってはっきりとは見えなかった。気短になった主君を案じ、嘆息をしながらも、禽不理は即座に命令にしたがうことにした。これ以上とどまって、魚支吾がまた気を変えてはならない。  緊張した足音が立ち上がり外へ出、遠ざかるのを待って、魚支吾は胸を押さえながら筵《えん》に手をついた。  身体をふたつに折りながら、歯をくいしばる。やがて、痛みは潮のように遠くへ引いていく。痛みは不意で予測ができず、医薬でも止めることはできないが、短期間耐えていれば自然に引くのが救いだった。 「まだだ」  支吾は、ひとりとなった室内でつぶやいてみた。 「まだ早い」  天というものがあるのならば、〈魁〉を滅ぼしておきながら、その一方で彼の覇業を頓挫《とんざ》させるはずがない。 「今、すこしなのだ。せめて五年」  その五年の年月を、天が貸してくれるだろうか。 「貸さなければ、もぎとってでも」  だが、もぎとってでも中原を統一したあとの国の形を、魚支吾は思い描くことができなかったのである。 「来るなと申した。何故、来られた!」  武人にしては平生は温厚な百来《ひゃくらい》が、声をあららげて叫ぶのを、彼らは見た。 「瀘丘《ろきゅう》を動いてはならぬと、申したはず」 「瀘丘では、埒《らち》があかぬ。あの小生意気な商癸父こそ不在だが、あちらこちらに下衆《げす》どもの目が光っていて動きがとれぬ。〈鄒〉を拠点に旗をあげ、耿無影の非を天下に問うのがもっとも上策と、衆議が一致したのです」 〈鄒〉におしかけてきた士大夫は五人。それぞれが百人ほどの兵を連れ、戦車を連ねて来たと知って、百来は天を仰いだ。 「少なすぎる」  どうせ来てしまうのならば、せめてその倍、千人は連れてきてほしかった。 「そんなことはありません。この〈鄒〉にも五千の軍勢がいる。それを動かせば」 「莫迦な——。勝てると思うておるのか」 「〈征〉が、われらの後見となってくれると書簡で申しましたでしょうが」  五人の首謀者の宮振《きゅうしん》は、百来の息子ほどの年齢である。髯《ひげ》のりっぱな八尺近い漢だが、武《ぶ》も文《ぶん》もすぐれているとはいいがたい。ただ、〈衛〉の名家の出というだけで位を与えられているのだ。激しやすい性格で、雄弁ではないがどこか人を圧する迫力を持たないでもなかったが、どちらにしても無影に重用されている方ではなかった。  その宮振の顔にむかって、百来は告げた。 「その、〈征〉に勝てると思うのかと問うておるのじゃ」 「ご老人」  宮振は、たしかにせせら笑った。百来将軍も、ついに老いぼれたかという嘲笑だった。 「われらは、〈征〉と戦うのではない。耿無影と戦うのですぞ」 「おぬしらはそのつもりでも、〈征〉の思惑は違うであろうよ」 「〈征〉王がわれらを欺《あざむ》くといわれるか。われらは〈征〉王の誓約書まで得ているのですぞ。もしも偽りだった場合には、〈征〉王の威信が地に落ちることになる」 「だれがその、違約を天下に公表するのだ」 「だれが——といって」  五人は、たがいに顔を見合わせた。 「ここで、おぬしらを全滅させてしまえば、証拠などなくなる。たとえ、誓約書が残ったとしても、背《そむ》いた者の名誉を背かれた陛下が護ってくだされるとでも思うか」 「それは——」 「そんなはずは」 「陛下が、漫然と国を留守にされたと思うか。ここにも——この〈鄒〉にも学舎《がくしゃ》出の吏《り》が配置されておるのじゃぞ。儂だとて、陛下の監視のもとにあるのじゃ。おぬしらの手の内など、とっくの昔に知られておるわい」 「な、ならば、それを事をわけて説明してくだされば」 「そうしたら、信用したか。今日あることを、陛下がすべてお見通しだといったら、あきらめたか」  いいながら、百来は一枚の紙をとりだした。小さくたたまれた紙には、〈征〉の意図の予測が書かれていた。 『——|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器が、〈征〉に潜伏している由《よし》。彼の者に扇動される者は、放置すべし。御身は呼応する体《てい》を守り、〈鄒〉に集めるも良し。いずれ〈征〉の侵入のあかつきには、その者らを放置、〈鄒〉を放棄した上で御身は瀘丘へもどるべし』  おのれに不満を持つ者らを、他国の間者を逆に利用してあぶりだし、他国の手によって始末をつけようというのである。 「陛下にとって、〈鄒〉の地などたいした意味はないのじゃ。もともと、ころがりこんできた土地じゃ。ここを〈征〉に奪われたとしても、〈衛〉の地が減ったわけでもない。だからこそ、直接に治めず、儂のような者にお預けになったのじゃ。わかるか。陛下はわざと隙を見せて、おぬしらのような思慮の足らぬ、恩知らずどもを切り捨てるおつもりであったのじゃ」 「莫迦な——!」 「わ、われらを裏切っておられたのか、将軍!」 「儂は、来るなと申したはずじゃ!」  宮振の背後の若い者らが激発しかけたが、老人の一喝で一斉に粛然となってしまった。腕力ではいざしらず、百来の気迫に勝る者は、この場にはだれひとりいなかったのである。 「申したであろう。儂も見張られていたのじゃと。事を明かせば、その時点で儂は〈鄒〉を追われておったろう。死ぬことは恐れぬが、儂が今、〈鄒〉を離れれば御身らを救うことができなくなるではないか。儂には恥を忍び、人目をしのんで来てくれるな、軽はずみなことをしてくれるなと頼むしかなかったのじゃ」 「そのような、いいのがれを——!」  若い者らは、すでに剣を抜いている。だが、百来は身構える子遂《しすい》を手で制して、 「本気にせぬなら、好きにするがよい。儂はこの歳になっていまさら、陛下に背き売国奴の汚名を着たくはない。儂を殺して、城門を〈征〉に開くがよい。おぬしらが〈征〉に殺されるぶざまな姿を見ずにすむだけでも、ありがたい」  しずかに言いはなった。  そのことばにかぶさるように、急を告げる声が外から流れこんできた。 「——〈征〉が!」  城門を守る兵士のひとりが、駆けこんでくる。 「ただいま、伝令がまいりました。〈征〉軍が——〈征〉軍、およそ一万が、こちらにむけて、今朝ほど新都を発したそうです。明日の早朝には、着くだろうとのこと」  報告を聞く宮振たちの表情が、次第に不安の色に染まっていくのを百来は確認した。百来のことばを、全面的に信じたわけではない。だが、ここに至って、もしや、という疑念がしのびこんできたことはまちがいない。 「百来将軍。御身の申されたこと——その、〈征〉の違約というのは、まちがいのないことか」 「誤りだったとして、いかがする」  百来は憮然となった。こんな単純な道理も、この連中はわからないのか。長年の〈衛〉の平穏に慣れて、判断がつかなくなってしまったのか。 「たとえば、このたびは〈征〉が御身らに味方して、結果、陛下が〈衛〉から追われたとしよう。そのあと、いったい誰が〈衛〉の主となる? 魚支吾が、すんなりと退《ひ》くと思うか。たとえ〈衛〉人を国主にたてたとしても、実質、〈衛〉を支配するのは魚支吾ぞ。おぬしらはただ、〈衛〉を魚支吾に売り渡しただけという結果になるのは明白ではないか。また、御身らが重用されるのも、最初のうちだけじゃ。一度、主君を裏切った者は二度と主には信用はされぬ。うとんじられるのはまだよい方じゃ、口実を設《もう》けて粛正されぬ保証がどこにある」 「——し、将軍」  宮振の仲間のひとりが、声を震わせた。 「ま、まだ間に合いましょうか」 「子伊どの!」 「すくなくとも、耿無影が〈衛〉王であるかぎり、封地は安堵される。許されるなら、二度と不埒な考えは起こさぬと誓います故、どうか、陛下におとりなしを」  宮振の非難を無視して、呂子伊という男は百来にむかって叩頭《こうとう》した。それに引きずられたかたちで、他の三人も同調する。裾にすがらんばかりの懸命さ——なりふりかまわぬ手のひらのひるがえりように百来は、こんな場合だというのに笑いをもらした。実際、憫笑《びんしょう》するしかなかった。  耿無影の知略はどうだ。国を離れていてさえ、自在に人をあやつり罠にはめてしまう。それにひきかえ、この連中のあさはかさときたらどうだ。そして、無影の手先になって動くしかないおのれの姿ときたら。 「立つがよい」 「それでは」 「その前に、まずは〈征〉と一戦して生き残ることじゃ。見事、魚支吾を撃退してのければ、陛下のご寛恕《かんじょ》もありえよう——。兵を点呼して、城門に配置せよ。近隣の邑《むら》にはふれを出し、城内に入れるように。その際、食糧も持ってくるようにとな。それから、今のうちに急使を走らせるのじゃ。陛下のお許しが出れば、援軍が来よう。来なければ、せめて魚支吾に一矢でも報いて死のうではないか」 〈琅〉軍が、完全に撤退したという報告をうけて、〈乾〉伯・夏夷《かい》が大牙の幕《ばく》にやってきたのは、戦の二日後である。 「このたびのご助力、まことに感謝に堪《た》えぬ。深く、礼を申しあげる」  むろん〈容〉にしても他の国にしても、無料《ただ》で援軍を送ったわけではない。のちのち、それは城邑《じょうゆう》の形をとるか、食料や貴金属の形で送られるか、それとも、今度、別の国に事が起きた場合の援軍という形態をとるか——とにかくいずれ代償を支払わねばならないのである。〈乾〉の国力でこの負債を返すには、長い年月か、よほどの僥倖《ぎょうこう》が必要となるだろう。 「しかも、御身《おんみ》の臨機応変な戦ぶり。いくら相手に倍する兵力があったとはいえ、あのように変わった法で攻めてこられては、我らではどう対処のしようもなかった。御身の戦上手には、皆も感嘆しておるのじゃ。以後、御身を帥《すい》にすれば、負ける戦はよもやあるまい」  口をきわめた誉めことばを、淑夜は複雑な思いで聞いていた。  外見は温厚な人格者の〈乾〉伯・夏夷と、淑夜は、この春の騒動の際に面識を持っている。〈容〉から逃れてきた淑夜を迎え、話を聞き、大牙を救ってくれた恩人のひとりである。先日来の〈衛〉との盟約に関しては理解を示し、〈貂〉をはじめとする他の諸国を説く際には協力するとの約も、比較的簡単に与えてくれた。  感謝はしているが、淑夜はこの老国主に対して、一抹の不安をおぼえていた。  夏夷は、大牙に対して敵意は持ってはいない。だが、敵意がない——ということが、すなわち大牙にとって有利に働くかといえば、かならずしもそうではない。  俗にいう、味方に脚をひっぱられる、という事態も十分に考えられるのである。  夏夷という老人は、滅んだ〈魁〉王家をたいそう敬慕《けいぼ》している。段大牙に肩入れしてくれるのも、王家にもっとも近い血縁だというのが第一の理由なのである。大牙には悪いが、大牙の人物を見極めての判断ではけっしてない。  そのあたりは、大牙も口にこそしないものの、敏感に感じているのだろう。礼を失しない程度に丁重に、だが、どこか敬して遠ざけるといった調子で話を合わせていた。 「ところで——」  と、夏夷が話の口調を変えた時に、淑夜はいやな予感をおぼえた。 「ここへ参るまでに、他の諸国の国主方の天幕を、ひととおり回ってきたのだが」 「それは——ご苦労でした」 「いやいや、皆、熱心に儂の話を聞いてくれての。こころよく同意してくれた。ここの直前に、夏子華《かしか》どのの天幕を訪うたのだが、特に子華どのが熱心での」 〈容〉の家宰の夏子華は、糧食の手配のために大牙たちとは異なる道をとってここまできている。そのせいもあって、天幕も陣も、大牙たち、〈奎〉の者たちとは別となっていた。  大牙が、〈容〉を後背の守備に残したために一兵もそこなわずにすみ、たいそうな喜びようをしていたのだが。 「皆の者に図《はか》ってみたのじゃがの、段公子、いや、〈奎〉伯と呼ぶべきか」 「どちらでも、ご随意に。おなじことですよ」 「いやいや、問題はそこなのじゃ。〈琅〉との戦がこの一度きりですむとは、誰も思うておらぬ。奴らめ、戎族と同様で、隙があると見ればまた、のこのことやってこよう。それは負けにやってくるようなものだが、そのたびに諸国は連衡《れんこう》せねばならぬ。また、戦は〈琅〉との間に起きるとは限らぬこの時世じゃ。いずれ、〈征〉との間にも決着をつけねばならぬ。そういう際に、諸国がおのおのの国主の判断で戦をしてよいものか。そういった際に、皆の心をまとめる存在となり、主として掲げられる盟主を定めておくべきではないか——」 「それは」 「お待ちください、殿下」  話の風向きがどちらへ向かっているのか、先に感知したのは淑夜である。大牙は、かろうじて眉を寄せていたが、冀小狛に至ってはぼんやりとうなずいていたのみだ。 「僭越《せんえつ》ながら、申しあげます。盟主には、人徳、人望、見識ともにすぐれておられる〈乾〉伯殿下ご自身がなられるべきかと存じます」 「いや、耿淑夜。儂では、他の国主方から反対が出る。また、〈征〉の魚支吾のように、故なく王を称している輩《やから》に対するためにも、正統に〈魁《かい》〉王に連なる者をたてる必要がある。大牙どのならば、このたびの戦ぶりといい、だれも文句のつけようもない」 「しかし、俺——いや、私は父祖の地を失っている身です。そんな資格は」  ようやく、大牙も抗弁をはじめた。 「封地の有無は、この際、関係がない。正直なところ、ない方がよろしいのだ。その方が、一国の利益に偏重せぬようはからっていただけよう」  大牙と淑夜が、思わず顔を見あわせる。ねらいは、そこか。戦のうまい大牙を〈容〉に独占させておくのに、危険を感じたのか。 「しかし——〈容〉は。私は〈容〉の執政をお預かりしておりますが」 「それは、今しばらく——〈容〉伯が成人するまでは、つとめていただかねばならぬが」 〈乾〉伯は、満足そうにうなずいた。 「それ以後は、むしろ、諸国の盟主——正式に〈奎〉王となっておかれた方がよろしいのではなかろうか。その——無用の猜疑《さいぎ》も、避けられようしの」  ふたたび、淑夜と大牙が顔を見あわせる。 「では、夏子華どのは」 「おお、よろこんで、段大牙どのを〈奎〉王として推戴《すいたい》すると申しておる。他の国主方も同様。反対する者は、ひとりとしておらぬ。あとは、段公子に承諾してもらうだけなのじゃ。承諾してもらえれば、吉日を選び、なるべく早く式典を行ってしまおう。いかがじゃな。むろん、異存はござらぬな」  長い沈黙があった。  淑夜が二度、口を開こうとして、大牙の無言の制止に遭った。冀小狛は三度。  やがて——。  深い嘆息とともに、 「ございませぬ」  諾という返答が、屈折した。 「おお、かならず承諾してもらえると思うていた。むろん、正式には国主方、全員が顔をそろえた上で、大牙どのを推すという形になるが——ま、決まったも同然。さっそく人に日時を占わせようほどに、儂はこれで」  礼もそこそこに、天幕を出た。  あとには、大牙と淑夜の重苦しい表情と、冀小狛の得心がいかぬという顔。 「何故でござる。〈奎〉王ですぞ。〈奎〉の名をふたたび興こし、王を名のる、しかも諸国の支持をうけてのことではござらぬか。めでたい、願ってもないことではござらぬのか。それを、何がご不満です。——淑夜、おぬしも、何が気にくわぬ。はっきり、わかるように申してみろ」 「土地も兵も持たぬ王ですか」 「なに——」 「名目だけで実力を持たぬ王なら、土偶《どぐう》でもつとまります」 「口がすぎるぞ!」 「冀小狛、怒鳴るな」  大牙が、口を重そうに開いた。 「しかしながら、主公《との》」 「淑夜のいうとおりだ。俺は——棚あげにされたらしい」  大牙が〈容〉を乗っ取り、他の国をとりこんで北方の統一を図らぬよう、王の名を与えるかわり、実権をとりあげる気だというのだ。すくなくとも、夏子華の思惑はそうだろう。 「しかし——主公が王になれば、他の者はその命にしたがわねばならぬ道理でござろう。なれば——」 「衷王《ちゅうおう》陛下の命令に、誰がしたがっていましたか」 「————」  淑夜のことばに、冀小狛は返すことばがない。 「彼らに推戴された以上、彼らの指示にしたがうのは大牙さまの方です。未来永劫、〈奎〉をとりもどしても、中原を統一しても。〈乾〉伯方の意に反したり、利益を損なうような真似をしたら、どうなるか」  衷王の例をあげるまでもない。  王の下で、各国の国主の利益がぶつかりあう、〈魁〉の幽鬼《ゆうき》のような体制では、中原の統一どころか、〈征〉に対抗していくこともおぼつかなくなるだろう。 〈衛〉も〈征〉も、古く硬直した身分や制度を変えようとしている。あらたな才能を取り入れ、変革を試み、すでに一部は成功しようとしている。それなのに——。 「——俺は、ここですでに、手脚をしばられたも同然ということになるわけだ。つまり、こういうことだったのか。苳児のいったことは」  勝ちすぎぬように。後から大変なことが起きる——。 「これが、天の意志か」  大牙のことばに、淑夜は拳を堅くにぎりしめた。  これが、天意なのだろうか。  ふと、四年前の夏の、降るような星天を淑夜は思いだした。  あの夜、死からすくいあげ生きる決心をさせたのは、こうして、挫折するためだったとでもいうのだろうか。無影をはばむどころか、なにもできずに終わるのだろうか。 (そんなはずはない)  生かされたのならば、為すべきことはきっとある、為せるはずだと、何度も自分にいい聞かせた。聞かせるはしから、自信が砂のように散っていく感覚に耐えながら、淑夜は記憶の中の星を、じっと胸のうちで数えていた。 〈魁〉滅亡から四年後の冬、応鐘《おうしょう》(十月)もなかばのことだった。 [#改ページ]    あとがき 『五王戦国志』第四巻、黄塵篇、ようやくおとどけします。  のっけからなんですが、実は今回、本気で落とすかと思いました。昨年夏から、とみに筆が遅くなってはいたのです。それに加えて今年に入ってから良いことと悪いことと、双方ひとつずつ、身辺がひっくりかえるような騒動がありまして、結果、物理的にというより、精神的なプレッシャーを受けておりました。病気以外のいいわけはあまりしない方針だったのですけれど、今度ばかりは、楽天的な私もほとほとまいって仕事が手につかないありさま。これでけっこう、デリケートだったのかなどと、妙な自覚までしてしまいました。  ちなみに、現在はすっかり元どおりのバリケードな精神状態にもどっていますので、ご心配なく。  さて、いいわけついでにもうひとつ。ごめんなさい、巻数が増えました。三部構成で一部が二巻ずつと前回、申しあげましたが——ごらんのとおりの結果です。実は、前回、あとがきを書いた時点で、悪い予感はしていたのですけれど——。  とにかく、作者が当初、第二部の区切りの目安としたシーンには、まだまだ行き着いておりませんので、自動的に一巻増えて、第二部は三巻構成ということになりました。それで、なんとか第二部の決着はつくと思います。いえ、つかせます。第三部は——自信がないので三巻になるかもしれないと、今から予告しておきますが、そんなに長くだらだらと書いていても仕方がないので、計八巻。それ以上は延びないと思いますので、どうかご容赦。そのかわり、最後までつきあっていただけるよう、鋭意努力をいたします。  それにしても、何故、こんなに延びるのでしょう。決して、無駄な話はしていないつもりなのですけれど。無駄どころか、書き込みが足らず、強引な展開となった部分もあるぐらいです。最初の構想では三冊で全部書ききるつもりだったなんて、とてもいえません(笑)。  思うに、当初は、歴史というものを甘く見ていたのでしょう。たとえば、一国を強くするためには、制度を変えればいいと単純に思っていたのです。でも、制度ひとつ変えるにしてもその方法はひとつではないし、変革に抵抗する人間の存在も忘れるわけにはいきません。結果、ある程度、両方の見解などを書く必要があるし、それをやっていると話が寄り道し、枚数もどんどんとなくなっていくという次第。  ただ、とりあえず物語を通じてのテーマのひとつ、戦車戦から騎馬戦への移行という課題は、着実にクリアしつつあります。一歩進んでは三歩ぐらい後退するような速度ですが、一応、前は向いております。細かなシチュエーションの変更はかなりありますが、話の流れとしてはほぼ、当初の予定どおりですし、なんとか登場人物たちもがんばってくれるのではないかと思っています。難をひとついえば、その登場人物がなぜか男ばかりということでしょうか。作者だって、せめてもう少しロマンスの味つけもしたいし、女性もいっぱい出したいのです。実際、仕掛けはいろいろとしてあるのですが、こう、皆が各国に分散していては、どうにもなりません。国の統合がもう少し進む、第三部に期待していただくことにして、今回はこのあたりで。  ちなみに、次巻、五巻目は諸事情ありまして、刊行は来年の予定になると思います(たぶん)。ごめんなさい。でも、他にもいろいろとやりたい仕事、やらなければならない仕事があるものですから。もちろん、一度に何もかも手を出せるわけはないし、私の力にも限界はありますが。でも、少しずつやってみたいのです。どうか、ご容赦を。  なお、いつも関係各方面の方々にはご迷惑をかけておりますが、今回は特に、極道きわまりない入稿のために、たいへんなご面倒をおかけいたしました。心より感謝とおわびを申しあげます。  もちろん、この本を待っていてくださった(かもしれない)方々にも。  多謝、そして再見。 [#地付き]一九九五年四月          井上祐美子拝 [#改ページ] 底本 中央公論社 C★NOVELS Fantasia  五王戦国志《ごおうせんごくし》 4 ——黄塵篇  著者 井上《いのうえ》祐美子《ゆみこ》  1995年5月25日  初版発行  発行者——嶋中行雄  発行所——中央公論社 [#地付き]2008年8月1日作成 hj [#改ページ] 修正  叔夜→ 淑夜  撫然→ 憮然  疏《うと》んじられる→ 疎《うと》んじられる 置き換え文字 噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26 侠《※》 ※[#「にんべん+夾」、第3水準1-14-26]「にんべん+夾」、第3水準1-14-26 頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90 蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71 |※《あかげ》 ※[#「馬+華」、第3水準1-94-18]「馬+華」、第3水準1-94-18 |※《しん》 ※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88 |※《ぶた》 ※[#「彑/(「比」の間に「矢」)」、第3水準1-84-28][#「彑/(「比」の間に「矢」)」